イエスを十字架から降ろそう!

長谷川 良

欧米のキリスト教社会では今、クリスマスを間近に控え、ますます街は賑わってくる。プレゼントを探す人から、クリスマス市場に出かけプンシュを飲む人、街の賑わいが恋しくて外出する人、このシーズンになると心が浮き浮きしてくる人々は、子供たちだけではない。一方、老人ホームなどでは訪れる人もなく、1人で過ごす高齢者もいる。故郷から離れ、都会で仕事をしている若者はこのシーズンには帰郷するが、職種によっては帰郷できない人もいるだろう。

▲イタリアのフィレンツェの「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」の「十字架のイエス」(フィレンツェ・ガイドブックから)

クリスマスの主役はいうまでもなく2000年前に生まれたというイエス・キリストだ。キリスト教では「救い主」「メシア」と呼ばれ、キリスト教会ではイエスの誕生をその復活と共に盛大に祝う。教会から足が遠ざかっていた信者たちも年に1度のクリスマスには教会に出かける人も多い。

世界各地でその生誕を祝われるイエスは幸運な人だと思う人はいるだろうか。イエスが33歳の若さで悲惨な最後を終えたことを知っている人々はイエスという青年に言い知れない負債感を持つ。なぜ人類の救い主イエスが33歳の若さで十字架上で処刑されたのか、という思いが払拭できないからだ。

そういうこともあってか、イエスは十字架では死なずローマ兵士の追跡から逃れ、インド、そして日本まで宣教の旅に出たとか、マグダラのマリアと結婚して家庭を築いたとか、さまざまな話が外伝や伝承で伝わってくる。これらはイエスを処刑してしまったという負債から逃れたい、という思いから生まれてきた話ではないか。事実は、イエスは33歳で十字架で処刑されたのだ。

なぜ、イエスは十字架で処刑されたのか、その背景についてはこのコラムでも書いてきた。イエスの家庭問題、母マリアとの関係、実父ザカリアとの関係、そして洗礼ヨハネの不信などをテーマに書いてきた。関心のある読者は再読してほしい(「イエスの父親はザカリアだった」2011年2月13日、「イエスが結婚できなかった理由」2012年10月4日参考)。

ここでは一歩前進し、「イエスを十字架から降ろすべきだ」というテーマについて少し考えてみた。このテーマはイエスの十字架による救済論と密接な関係がある。換言すれば、イエスの十字架信仰で「果たして人々は罪から解放され、救われたのか」という実証的な問いかけがある。もちろん、「なぜイエスは再び降臨すると約束されたか」というイエス再臨問題も出てくる。
キリスト教関係者にとってこのテーマはその信仰の核に触れるだけに、「イエスを十字架から解放すべきだ」と主張すれば、これまでの十字架信仰が完全に否定されたように感じ、敬虔な信者なら怒りが飛び出すだろう。

平静な心で現実をみてみよう。イエスの十字架、そして復活で罪から完全に解放された人は1人もいない。聖パウロの告白を持ち出すまでもなく、これは事実だ。十字架信仰を掲げるキリスト者は「この世では罪からの完全な解放はないが、イエスの復活の勝利によって共に恵みを受ける」という淡い期待をもつ。この信仰姿勢は神とイエスを信じる信仰者としては尊いことだ。しかし、十字架信仰では、罪から完全には解放されなかったという事実は残念ながら否定できないのだ。聖職者の未成年者への性的虐待事件の多発を想起するまでもない。十字架信仰を持つ信者も救われていないのだ。

イエス自身、そのことを知っていたから、「私はまた来る」と再臨を約束されたのではないか。イエスの十字架で罪から完全に贖われるならば、イエスは本来、再臨する必要はないのだ。十字架を仰ぎ見続けるだけで十分なはずだ。

キリスト教の教理もイエスの生涯も知らない幼い幼児が教会の祭壇にかけられている十字架のイエスの姿をみてショックを受け、母親に「彼を早く十字架から降ろしてあげて」と呟いたという。幼児はイエスの十字架の救済論、贖罪論、ましてや再臨論については全く知らないが、十字架につけられたイエス像を見て「かわいそう、見るのが怖い」と感じたのだ。このエンパシーは神学の教理以上に事実を語っているように感じる。イエスの十字架は決して神の勝利ではなく、それを崇拝したとしても罪からの完全な救いはもたらさないのだ。

悪魔はイエスが十字架から解放され、再臨してその使命を果たすことを阻止するために彼を十字架に縛り、十字架信仰を構築してきたのではないか。イエスを祭壇の十字架から降ろすべきだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年12月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。