訴訟では、「主張」と「立証」が明確に区別されています。
刑事訴訟では被告人が有罪であることの主張・立証責任は検察官にあり「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度」まで立証しなければなりません。
民事訴訟では、概ね、自分に有利な「主張」と「立証」を、各当事者がすることになっています(詳細なルールは省略)。
ところで、私は今回のテーマを「少しでもいいから自然に触れよう」にしようと思いました。通勤途上でも昼休みの公園でも、スマホを見る目を休め、芽吹き始めている植物を見ると自然の移ろいを感じることができるからです。
はたと困ったのは、「どうして植物で自然の移ろいを感じる必要があるのか?」という根拠が思い浮かばなかったのです。
日の長さで自然の移ろいを感じる人もいれば、気温で感じる人もいるでしょう。デパートのショーウィンドウで季節の移ろいを感じる人もいるかもしれません。毎日カレンダーを見ていればそれで済むという人もいるでしょう。
つまり、「自然に触れよう」という「主張」に対して「立証」が付いてこなかったのです。
訴訟に例えれば、「貸した金を返せ」と主張したものの借用証も証人もいないというのと同じ状況に陥ってしまいました。
文章を書くときに「立証」という用語は違和感があるので、「根拠」としましょう。
「根拠」を示さない主張だらけの文章は(よほど巧みに書かれたものでない限り)読者を説得することはできません。「私はあの政治家が嫌いだ!ともかく嫌いなのだ!」と叫んでいるのと同じです。
私も偉そうなことは決して言えません。「大昔読んだ本に書いてあったことですが」などと、真偽不明の根拠を挙げることがしばしばあります。「誰それが書いていた」と述べても、「誰それ」が信頼できる人物であるという保証はまったくありません。
最も説得的な根拠は「数字」でしょう。
「体重わずか90キロの力士が180キロもある巨漢の力士を投げ飛ばした」となれば、小柄な力士の技のキレを示す根拠になるでしょう。
「ロシアは核兵器は大量に保有しているものの、日本円に換算したGDPはたかだか140兆円でに過ぎない」と言えば、もはやロシアは経済大国ではないということが伝わるでしょう(ちなみに、世界3位の日本のGDPは500兆円以上です)。
「ミクロ経済学の力」(神取道宏著)では、正反対の意見が交わされている政策的主張を数式を用いて優劣を判断しています。数式で証明されると、ほとんどの人は白旗を上げざるを得ません。
もっとも、経済学の数式には必ずいくつかの「仮定」が存在するので、そこに疑問を差し挟むという手はありますが…。
「根拠」の説得性は、数値で表せば0から10くらいまでの開きがあります(10を最高として)。たとえ説得力が1の根拠でもないよりはマシです。「根拠」があるだけで、文章に厚みがにじみ出るからです。
先の「自然に触れよう」という主張でも、「人類史を顧みれば、人類はほとんどの年月において自然との共生しており、近代文明の中で生活するようになったのはごく最近のことだから」という曖昧な「根拠」でも、ないよりはマシかもしれません^^;
編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2018年1月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。