自称「リベラル」や、それを安易に用いるメディアはリベラルの意味を誤用している。本来リベラルは自由主義者と訳されるが、日本型「リベラル」は昔ながらの左翼活動家である。その実態は、左翼であることを偽装するための隠れ蓑に過ぎない。
本書は自らを「リベラルな保守主義者」と定義する著者の義憤の発露であり、リベラルの名を汚し、反知性主義に陥った左翼メディア、知識人、政治家を徹底的に批判する。その上で共産主義の本質的な危険性を指摘し、本来のリベラルとは相容れる思想ではないと警鐘を鳴らす。以上のような矛盾や欺瞞を乗り越えるために、終章では戦前の知識人である河合栄治郎を取り上げ、リベラルのあり方や役割を考察している。
例えば、立憲主義を破壊していると安倍政権を批判する朝日新聞の矛盾した論説を、著者はご都合主義的だと指摘する。国民からの好感度が9割を超える自衛隊を、憲法学者の違憲との見解に基づいて即時解散を要求することはない。一方、平和安全法制に対しては、今日に至るまで憲法学者の意見を絶対視して、繰り返し反対の論陣を張っている。選挙を経ていない学者の私見に重きを置き、国権の最高機関である国会での議論を軽視するその姿勢こそ、立憲主義への重大な侵害であるはずだ。
本書は政治思想を体系的に学びたい人にとっては、シラバスの役割も果たしている。西洋政治思想を専門としてきた著者は、古今東西の名著を本書の中で惜しみなく披露している。カール・シュミットの「政治的なものの概念」といった専門書から、シェークスピアの「ジュリアス・シーザー」のような大衆心理を見事に描く戯曲まで幅広い分野をカバーしている。また、過去の文献を丹念に読み込みながら、それを根拠に自説を展開する著者の姿勢は、論拠を示さず読者の煽動を試みる「リベラル」と本来のリベラルとの違いを見分けるリトマス紙となる。
政治思想としてのリベラルを考えることは、対局に位置する保守主義のあり方を論じることに通じる。著者はレオ・シュトラウスの「よく節度をわきまえた自由主義者は、よく節度をわきまえた保守主義者と区別しがたい」との一節を引用し、両者の共通項を指摘する。保守主義の考察は、政党の離合集散やマスメディアの役割、そして国民の報道を読み解く力を強化する上で役立つはずだ。「保守主義の原点は、祖国に対する愛情」と喝破する著者自身の重厚な保守主義論は、次作に期待したい。
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小林 武史 国会議員秘書