日本国憲法には、しばしば引用される「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」の言葉を含む前文がある。憲法の基本原則を述べたものだが、裁判において前文を根拠にできるかどうかという規範性については議論が分かれ、否定的意見が強い。
だが中国憲法の前文(序言)は、かつて旧ソ連をはじめとする一部の社会主義国がそうであったように、共産党政権の正統性を主張した政治的色彩が強く、条文以上の権威を与えられている。
「毛沢東主席をリーダーとする共産党の指導によって帝国主義、封建主義と官僚資本主義による統治を打倒し、中華人民共和国を建国した。この時から、中国人民は国家権力を掌握し、国家の主人公になった」
前文にあるこの一文が正統性の核心であり、社会主義の成果も今後の事業建設もみな「共産党の指導」に帰結されている。だが、第一章の「総論(総綱)」には「中華人民共和国はプロレタリア階級が指導し、労農同盟を基礎とする人民民主独裁の社会主義国家である」「中華人民共和国の全権力は、人民に属する」とあるだけで、「共産党」は登場しない。第二章以下は国民の権利義務や国家機関に関するもので、やはり党は後ろに隠れている。
人民を代表する共産党が国を指導している以上、党は憲法を超越した存在だとの位置付けだ。
ちなみに、憲法には「人民」と「公民」の二つが使い分けられている。「公民」は中国国籍を持つ人間を指す法律上の概念で、「中華人民共和国の公民は法律の前ではみな平等である」(第三十二条)などと定められている。一方、前文には「人民」だけが登場する。社会主義と祖国統一を擁護する階級のすべてを指す政治的概念であって、法律上の概念ではないことがうかがえる。つまり、公民の中には、「人民」と人民の敵が存在し得る。敵は階級闘争によって排除すべき対象となる。前文にははっきりと、
「中国人民は我が国の社会主義制度を敵視し、破壊する国内外の敵対勢力と敵対分子に対し、闘争をしなければならない」
と書かれているのだ。
そこで本題に入るが、習近平政権が提示した修正案には、第一条第二項にある「社会主義制度は中華人民共和国の根本制度である」の後に、「中国共産党の指導は中国の特色を持つ社会主義の最も本質的な特徴である」との一文が追加された。初めて本文に「共産党の指導」が書き加えられた。これは言うまでもなく、「共産党の指導」により一層強固な法的根拠を与えると同時に、憲法の権威を高める効果を併せ持つ。
中国では、法の無視が毛沢東の神格化を生み、社会の大混乱を招いた文革の反省に立ち、1978年12月、党第11期中央委員会第3回全体会議(11期3中全会)が法制強化を訴え、「依るべき法を持ち、法に必ず従い、厳格に法を執行し、違法は必ず罰する」との決議を採択した。11期3中全会は、毛沢東路線から鄧小平による改革・開放体制への大転換を図るため、依って立つ法の権威確立が重要だった。
その後、憲法改正をはじめとする法制の整備が進められ、1997年9月、第15回党大会の政治報告に「法治社会の建設」が盛り込まれた。当時の江沢民総書記は同報告で「依法治国(法によって国を治める)は、党が人民を指導して国家を治める基本方針である」と述べた。最高権力者として君臨した鄧小平(同年2月死去)の不在で、権力の拠り所を法に求める必要があった。
さらに、2002年11月、総書記に就任し、権力基盤の固まっていない胡錦濤がまず強調したのも「社会の憲法意識を確立し、憲法の権威を守らなければならない」(同年12月4日憲法公布施行20周年記念大会講話)だった。
以上のように、歴代の指導者から唱えられる「法治」は、多分に権力者の政治的都合を反映してきた。その裏返しとして、権力が確立するやいなや、権力を拘束する法はないがしろにされる傾向にあった。習近平は、権力基盤を確立した後、法による正統性の強化を進めている点で特筆すべきだ。
私は以前、『習近平の政治思想』(2015年、勉誠出版)で、共産党政権の正統性について、国家を打ち立てた歴史的正統性と、改革開放政策によって世界第二位の経済大国に成長させた現代的正統性の両輪を指摘した。前者は毛沢東、後者は鄧小平が象徴している。習近平は紅二代として、この二つの正統性をよりどころとしてきたが、新たに法的な正統性を加えようとしているのだ。
(続)
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2018年3月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。