1クラスに2人が発達障害傾向
7月20日に放送されたTBS『金スマ』で、発達障害のピアニスト・野田あすか氏が取り上げられていた。ピアニストだが音符が苦手であるなど発達障害(自閉症スペクトラム障害)ならではの苦しみを乗り越え、CDデビューなど活躍する姿が報じられた。
発達障害は脳機能に関する障害で、2012年の文部科学省の調査(※)によると、日本では1クラスに2人程の児童生徒が発達障害傾向にあることが明らかとなった。大学全入時代の現代日本では、当然そうした彼らも最高学府に入学している。(※)『通常の学級に在籍する発達障害の可能性のある特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査』
頻出ワード「グレーゾーン」
私は大学の就職課で事務職員として大学生の進路支援に従事しているが、他大学の就職課の方々との交流のなかで違和感を感じてきたことがある。それは、「グレーゾーン」という頻出ワードである。何かと言えば、就職希望のある学生(または就職できそうな学生)は「白」、就職希望のない学生(または就職できそうにない学生)は「黒」、どちらか曖昧な学生を「グレーゾーン」と呼称しているのである。
たとえば「グレーゾーンの子の対応ってどうされてますか?」などと日常的に使われている。明確な定義があるわけではなく共通言語として成立しているに過ぎないのだが、「グレーゾーン」として挙げられることが多いのが発達障害傾向のある大学生である。それは、障害者手帳の所有状況、本人と保護者の認識状況、障害者雇用枠活用の意向といった様々な事情に関する情報が白黒はっきりしない「グレー」である場合が多いからである。
色分けの意図
もちろん、色分けしたからといって彼らの進路支援を放棄するというわけではない。むしろビジネスの世界におけるセグメンテーションやターゲティングの発想に近く、区別したうえで的確に対応したいという善意からであり、たとえばグレーゾーン学生への進路支援方法についての勉強会などは頻繁に実施されている。
「グレーゾーン」の他にも、「2:6:2」などの色分け用語が大学では飛び交っている。就職情報会社の営業担当者が「御校は2:6:2のどの部分にどのような課題感がございますか?」と仰るケースも珍しくない。
色分けの吟味
そんなとき、私は「うちの学生を勝手に仕分けしないでいただきたい」「そもそも、何基準での2:6:2なのか」「もしあなたが底辺の2だと言われたらどう思うだろうか」とお伝えしている。いや、お考えは十分に分かる。区別対応、優先順位付け、選択と集中、どれも正しいビジネスツールだとは思う。だが、人の可能性を引き出すのが仕事の教育関係者が人を色分けすべきなのだろうか。
色分けが許される「トリアージ」
少子化による生存危機を迎える大学人にとって、「グレーゾーン」というキーワードを使うことは「トリアージ」に近い切迫感があるのだろう。就職者の量・質が入学者の量・質に強く影響する以上、「就職を希望するのか否か」は確かに死活問題ではある。
人間とは化ける生き物
しかし、ただの事務職員ではあるが、一教育関係者として申し上げておきたいのは、教育関係者は発想の出発点として人を色分けしてはならない、ということだ。実は「トリアージ」にしても、大災害やテロなどの緊急時にのみ用いられる概念であり、致し方なく「小の虫を殺して大の虫を助ける」という発想である。「全ての患者を救う」という医療世界の大原則から見れば例外中の例外なのだ。
その点、教育現場は緊急事態ではない。「全ての子を育てる」という大原則をもとに可能性を引き出すことを粛々と実践せねばならない。もしキャパオーバーなのであれば、入学者数や入学条件を調整するなどの自主対応も可能である。それを、自分達が好きで招いた顧客なのに招いた後で「お手上げです」と白旗を揚げ、代わりに効率性という錦の御旗を振りかざし人を選別し烙印を押す。それは、反則技だと思う。
教育とは緊急事態になる前に策を講じる先行投資であり、人間とは化ける生き物である。いつ化けるか、どう化けるかは「オ・タ・ノ・シ・ミ」だが。
グラデーション・マインド
「グレーゾーン」の拙さは、白と黒とその間の中間色という、2種類から3種類に分類色を増やしただけという単純化主義にある。人の個性が色だとするならばもっとカラフルだし、仮に白と黒だけだとしても明度や彩度は十人十色のはずである。
また、一度決まった色がずっとそのままという固定化主義も問題である。仮に一度色が決まっても、何かのきっかけで色は変化する。それまで就職希望がなかった学生(黒)が何かのきっかけで就職希望あり(白)に変わることは十分にあり得る。
教育業界がスローガンとして掲げる「個性」を本当に実現しようとするならば、人にはそれぞれの色があり、且つその色は変わる可能性があるという言わば「グラデーション・マインド」を出発点とするのが自然ではないだろうか。
三木谷さんも発達障害 ?
たとえば、楽天の三木谷浩史社長は、自身を発達障害の一種であるADHD(注意欠如・多動性障害)の傾向があるかもしれないと述べている(『ファースト・ペンギン 楽天・三木谷浩史の挑戦』)。その著者・大西康之氏は、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏、Googleのセルゲイ・ブリン氏とラリー・ペイジ氏、Amazonのジェフ・べゾス氏など、名立たるIT企業の創業者達にもこの傾向があるのではないかと述べている。
だが、何のことはない。三木谷氏の言葉を借りれば、「頭の構造が他の人とちょっと違う。それだけのことでしょ。」である。
いろいろ居るのが社会
Googleなど先進的な企業は発達障害者やLGBTなど社会的マイノリティのポテンシャルをいち早く評価し活かしてきた。活かすから個人もイキイキし、粋な会社となる。
別に発達障害者だから全員を優秀だと顔パス認定するわけではなく、発達障害者のなかにも(ある環境下において)高いパフォーマンスを発揮できる優秀な者とそうでない者が(ふつうに)居るという、過度な特別視をしないだけである。
こうしたニュートラルな発想こそ、インクルーシブ教育(共生的包容教育)やダイバーシティ(人材多様性)への扉だと思う。いろいろ居るのが社会であり、正常と異常の線引きなど微妙なものである。「個性」や「多様性」を埃被った標語にしないためには、「グレーゾーン」という使い勝手の良い便利用語と訣別してみるのも選択肢のひとつだろう。
発達障害者という可能性
さいごに、可能性についても触れておきたい。発達障害者が苦手とされることのひとつは、コミュニケーション(意思疎通)問題である。しかし、先の野田氏が奏でるピアノは聴く者を圧倒し、涙を誘うほどであった。そこには、確かな意思の疎通を感じた。
もうひとつは、マルチタスク問題である。社会に出ると乗り越えがたいテーマのように思えるが、殊に仕事という文脈で言えば、むしろプラスに働く可能性だってある。たとえばメイドインジャパンの工場直結ファッションブランド「ファクトリエ」を率いる山田敏夫代表は「コミュ力がある人はついつい喋ってしまうので、没頭するモノづくりには向かない」と述べている。
脱・はめ込み教育
このように、個人の一要素(特性)が特定の環境の一要素(因子)とマッチするということはキャリア理論のなかでも古くから言われてきた(特性因子理論)。マッチング理論とも言われ、現在の採用活動におけるマッチング志向の理論的根拠でもある。
ただし、三木谷氏やファクトリエのように、個人や環境の一要素とフラットでニュートラルに付き合える個人はまだまだ稀有だろう。だからこそ、教育関係者は自らの日常語に潜む思考回路を点検し、環境に個人を適合させる「はめ込み教育」ではなく個人に合う環境を発掘・創出することにこそエネルギーを投じる必要がある。教育にトリアージは要らないのだから。
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高部 大問(たかべ だいもん) 多摩大学 事務職員
大学職員として、学生との共同企画を通じたキャリア支援を展開。本業の傍ら、学校講演、患者の会、新聞寄稿、起業家支援などの活動を行う。