法王、沈黙でなく説明する時です

長谷川 良

ローマ法王フランシスコは「ペテロの後継者」に選出されて以来、最大の危機に立たされている。その直接の原因は、法王自身が米ローマ・カトリック教会のセオドア・マキャリック枢機卿(88)の未成年者や若い聖職者への性的虐待問題を5年前から知っていた疑いがかけられているからだ。その疑いを提示したのはバチカン駐米大使だったカルロ・マリア・ビガーノ大司教の書簡だ。

▲サン・マルタ館で朝の礼拝をするフランシスコ法王(バチカン・ニュースのHPから)

フランシスコ法王は疑惑に対し、ダブリンからローマに戻る機内での記者会見で質問を受け、答えている。「私は何も言うことはない。その書簡が語っているからだ。賢明な記者の諸君たちはその書簡を読解できるはずだ」

フランシスコ法王の答えをその通り受け取るならば、法王はマキャリック枢機卿の性犯罪を知っていたことになるが、答えは他の解釈も成り立つ余地を残している。質問に対し、「イエス」か「ノー」で答えることができるが、フランシスコ法王はこの時に限って禅問答のような返答をして、質問をかわしているのだ。

バチカン関係者から「なぜ教会のスキャンダルばかり書くのか。イエロー・ジャーナリズムだ」といった類の批判の声を聞くが、ここで確認しておかなければならない点は、教会のスキャンダルは教会の聖職者たちが過去、重ねてきた蛮行であり、ジャーナリストが創作した不祥事ではないことだ。すなわち、ことの初めは教会側から始まったという歴然とした事実を忘れてはならない。その教会側が「なぜネガティブなことばかり報道するのか」と不満を言う資格はない。法王にとって今必要なことは、疑惑に対し明確な言語で返答することではないか。

その意味から、フランシスコ法王の3日朝のサン・マルタ館でのミサの内容には少々、失望した。フランシスコ法王が今回の件ではっきりとした立場を明らかにするのではないかと密かに期待していたからだ。

朝の礼拝を報じたバチカン・ニュース独語電子版(9月3日)の見出しは「スキャンダルの代わりに、静けさと祈りを」となっている。引用した聖句は新約聖書「ルカによる福音書第4章16~30節」。

フランシスコ法王は、イエスが公の場に初めて現れた時の状況を思い浮かべながら、「真理は柔和であり、沈黙の中でその効果を表す。スキャンダルと分裂だけを求める人間に対して唯一可能な道は沈黙と祈りだ」と述べる。そして「イエスは不信で迎えられ、最後は追放された。聖書のこの個所は日々の生活で誤解がある時、正しい対応の仕方を教えてくれている。同時に、虚言の父、訴える者、悪魔がどのように家庭、民族を破壊するかを理解できる。イエスは怒り狂うワイルドな犬に対し、静かに、沈黙しながら対応した。イエスの威厳はその沈黙の中にあった」というのだ。

そして礼拝の最後、フランシスコ法王は「主よ、いつ話し、いつ沈黙すべきかを分からせてください」と祈っている。

南米出身のフランシスコ法王は寡黙な法王ではない。ドイツ人の前法王ベネディクト16世はあまり語らず、本来書斎の人だった。一方、ユーモアがあり、気さくなフランシスコ法王は教会内外で人気者となるのに余り時間がかからなかった。法王はツイッターで自分の意見や考えを書くことを躊躇しない。そのフランシスコ法王が“この時”になって、沈黙の価値を見出したとでもいうのか。

聖職者による未成年者への性的虐待は犯罪行為だ。教会内の出来事で済ますことができる問題ではない。フランシスコン法王自身、就任以来、聖職者の性犯罪に対して“ゼロ寛容”をモットーに対応してきたことで、信者たちからも信頼を得ていた矢先だ。その法王が聖職者の性犯罪を5年間、沈黙し、隠蔽してきたという疑いがもたれているのだ。この疑いは深刻だ。フランシスコ法王は潔白ならば、沈黙する時ではない。不必要な憶測や噂が飛び回らない前に、ことの真相を説明すべきだろう。

静けさと沈黙の価値を説いた3日朝の礼拝は素晴らしいが、カルロ・マリア・ビガーノ大司教が書簡の中で記述した内容に対しては、説明する以外に他の選択肢はないのだ。繰り返すが、聖職者の性犯罪の犠牲者に対して、フランシスコ法王は真相を明らかにすべきだ。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年9月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。