ようやくマスコミが同和問題に言及した。毎日新聞の10月7日付の「風知草」というコラムで、こう書いている。
(森山栄治)元助役は、助役に昇任する前、町職員に採用された69年から72年まで、部落解放同盟高浜支部の書記長だった(高浜町同和教育25周年記念誌)。前掲ルポによれば、この人物が、当時の解放同盟の差別糾弾闘争を主導し、その威勢をもって町政を支配した。
こういう糾弾闘争は、50年前には決して珍しい話ではなかった。それは部落差別が現にあったからだ。最近でわかりやすいのは、週刊朝日の「ハシシタ」事件だろう。
これは正当な糾弾だが、こんな絵に描いたような部落差別は今どき珍しい。糾弾闘争の大部分は、ちょっとした発言を問題にして、個人をつるし上げるのだ。共産党の機関誌『前衛』の記事には、1970年代の高浜町のこんな事件が書かれている。
小学校の教員であった彼女は授業中、薮から棒に役所呼び出しを受けた。会議室には、教育長、森山助役。総務課長がいった。
「お前、きのう美容院で何いうた! ここでもう一回、はっきりいうてみんか。(中略)しらばっくれたってあかんで。証人はいるんや。あんた『部落はかなわん』と差別発言したやろ!」
会議室には森山助役の怒声が飛び、糾弾は5時間にも及んだ。疲労困憊、もうろうとした意識の中で、ついに彼女は「謝罪文」に署名させられてしまった。
こういう事件は、京都では私の高校のころまでよくあった。社会に多大な影響を及ぼしたのは部落差別ではなく、糾弾闘争だったのだ。それを恐れる役所や大企業が「人権研修」などの名目で、解放同盟などに金を出すようになった。それ自体は問題ではない。
問題は、糾弾を恐れる役所や大企業にたかるえせ同和である。森山の手口はそれに近い。毎日新聞が書いているように「元助役が、部落解放運動を利用して自分に刃向かう勢力を退け、関電から裏金を受け取った」とすれば、弱みを握られた関電が30年以上も彼を切れなかった原因も理解できる。
今ではえせ同和の力も大したことはないが、役所やマスコミはそれを過剰に恐れている。同和問題の大部分は差別ではなく、差別を食い物にするえせ同和であり、それを恐れてタブーにするサラリーマンが問題を再生産しているのだ。
野党が国会で関電を追及するなら、立憲民主党の支援団体である解放同盟との関係も明らかにすべきだ。森山が1972年まで解同の構成員だったことは明らかだが、73年以降はどうだったのか。関電と解同の組織としての関係や金銭の授受はなかったのか。
それなしで騒いでも、森友・加計事件のような茶番になるだけである。