オーストリアのチロル州キッツビュールで今月に入り、5人の家族が全員殺されるという悲惨な殺人事件が起き、オーストリア全土に大きな衝撃を投じた。日本では川崎殺傷事件と元農水事務次官息子殺人事件を巡り、ネット世界でいろいろな意見や批判が聞かれたことがあった。「犯人は死にたければ、1人で死ぬべきだった」というコメントが大きな反響を呼んだとも聞く。1人で死ぬべきか否かの議論は虚しい。人は殺すことも、殺されることもできない存在だということが忘れられているからだ。
当方は、人間は一旦生命を授かった後は永遠に生きていく存在、と考える。だから、人は他の人を殺すこともできないし、自分を殺すこともできない。換言すれば、恨んでいる人を殺したとしても問題は解決できないばかりか、新たな恨みを繁殖するだけだ。人は憎む人間を射殺したとしても、殺した人間は消滅しない。どのような大量破壊兵器を使用しても、結果は同じだろう。
北朝鮮の独裁者、金正恩氏が叔父(張成沢)を火炎銃で灰にしたとしても、叔父はまだ生きている。もちろん、この世界ではないが、別の世界で自分を殺した甥を忘れることができず恨み続けているからだ。
殺したら、問題が解決できるのならば、世界はもう少し平和になっているはずだ。人類はこれまで無数の殺人を繰り返し、個人、家族、民族、国家まで抹殺してきた。人を多く殺せば、それだけ問題が少なくなるという論理は間違っている。実際は全く逆だ。殺せば、殺された人の恨み、つらみを背負うことになるから、問題の解決は一層複雑となる。
金銭や愛憎問題で人を殺したとしても、問題の解決にはならない。殺したと思った人間が死んでいないからだ。戦争の犠牲者を慰める追悼集会が世界至る所で開催される。なぜだろうか。戦死者がどこかで生きているという思いが払しょくできないからだ。
こんなことを言えば、「当方氏はとうとう、おかしくなった」といわれるかもしれない。これは当方の「信仰告白」ではない。神が創造された人間を完全に抹殺できると考えるのは傲慢だ。神は殺されれば消滅するような被造物を自身の似姿として果たして創造するだろうか。
幽霊や亡霊だけではない。この地上で死んだと思われていた家族や知人が夢の中で語りかけてきた、という体験を多くの人は持っている。ただ、大きな声で「彼は死んでいなかった」と叫べないだけだ。死んだ人間が住む世界と我々が住む世界は次元を異にするだけだ。殺された人はその悲しみ、恨みを持ちながら、それらが昇華されるまで去ってきた地上の住民にさまざまな影響を与えるケースが出てくる。
日本の臨床医が「人は死なない」というタイトルの本を出し、大きな話題を呼んだことがあった。医者がいうから「人は死なない」のではない。人は元々死なないからだ。その医者はその事実を追体験したのだろう。
アドルフ・ヒトラー、彼はアーリア系人種の優秀性を信じる一方、ユダヤ人をはじめ少数民族を大虐殺した指導者だ。ある宗教家から聞いた話だが、神は霊界にいるヒトラーを救いたいとしても、できないという。なぜなら、彼が殺した何百万人のユダヤ人たちが彼を許すといわない限り、神もヒトラーを勝手に許すことができないというのだ。死後の世界にも明確なルールがあることが理解できる。
多くの人が殺され、殺したという事件が絶えないこの頃、はっきりというべきだろう。「殺してもダメです」、「人は永遠に生きる存在です」と表明し、殺人が問題の解決にはならないことを主張すべきだ。「人は死なない」という命題は本来、あまり説明が要らない。多くの人は学校の先生から聞かなくても、分厚い専門書を読まなくても薄々知っているからだ。人が永遠に生きたいと願うのは、人は本来、永遠に生きるように創造されているからだ。
無神論的唯物思想の最終目標は、「人間は物質からできた存在だから殺せる」ということを信じさせ、互いに殺しあうように仕向けることだ。
殺された人たち、まして偶然に犠牲となった人たちは無念だろうし、その家族の悲しみは消えないだろう。しかし彼らは別の世界で生きている。地上に残された人は命ある限り、一生懸命に生きることではないか。悲しみの涙を流しながら家人を送り出す時は過ぎ、新しい世界に出発した彼らに「出発の歌」を歌い、門出を祝う時代がそこまで来ている(「『死』をタブー視してはならない」2017年10月23日参考)。
■
「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年10月15日の記事に一部加筆。