日本共産党との共闘は極左ファシズムへ加担
立憲民主党の石垣のりこ参議院議員がSNS上で高橋洋一氏を「レイシズムとファシズムに加担するような人物」と批判し山本太郎氏が主催する勉強会を欠席したことが話題になっている。
レイシズム・ファシズムという用語が一般にどこまで流通しているかどうかわからないが、かなり強い程度の批判であることは間違いない。
石垣氏はその他にも「極右ファシストが反緊縮やレイシズムと同居していたのが、20世紀の負の歴史の特徴でしょう。」と色々、自説を述べている。そもそも論として高橋氏が石垣氏の主張するような言動があったようには記憶していないし、根拠も示されていないようだが、妥当性があるのかを述べてみよう。
石垣氏が意識するレイシズムにはナチスが含まれているようだがナチスのレイシズムは単なるレイシズムではない。そもそも人種差別ははるか昔からあった。ナチスの人種差別が際立っているのは特定人種の抹殺を目指したからである。
普通は職業・居住選択の自由を制限し経済的利益の獲得を目指すがナチスはそれを目指さなかった。ユダヤ人を抹殺してもドイツ軍は強くならないし連合軍も弱体化しない。
客観的に見てもユダヤ人抹殺の合理性は全くない。しかしナチスは抹殺を目指した。そこはレイシズムではくくれない「何か」があり、その「何か」は反ユダヤ主義である。
日本には反ユダヤ主義に相当する思想はないからナチスを意識してレイシズムを語ることは生産的ではない。
彼女はレイシズムと共にファシズムも批判しているが、このファシズムという用語は意味が非常に広く、その定義を巡って混乱するのが常である。あまりにも混乱するのでかつて東京大学名誉教授・伊藤隆氏は「『ファシズム』という用語が、学術上の用語としてはあまりにも無内容なもの」(1)と指摘したほどであり、実際、歴史書でも日本人執筆者の場合「ファシズム」はあまり使用していないように思われる。
また、ファシズムにこだわるならば極右ファシズムだけではなく旧ソ連を代表とする極左ファシズム(=コミュニズム)も批判すべきである。極右ファシズムは批判するが極左ファシズム(=コミュニズム)は批判しないという理屈はない。罪のない人間を殺傷した数は極左ファシズム(=コミュニズム)が多い。
この観点から言えば石垣氏がやるべきことは民間人の講義を欠席することではなく立憲民主党と日本共産党との共闘を反対することである。日本共産党との共闘は極左ファシズムへ加担に他ならない。
石垣氏とその支持者は「日本共産党は旧ソ連とは違う」と言うかもしれないが、彼女らが反発する極右団体の構成員も「自分達はナチスとは違う」と言っているではないか。
過激分子は常に「優しい顔」をしているものである。
独裁は「法を超えた」地点にある
レイシズムだろうがファシズムだろうが単に主張するだけでは実現はしない。
雑駁に言えば主義・主張は「思想→運動→体制」の三段階を踏んで実現する。
そして思想の段階にとどまっているならば基本的に問題はない。特にその思想が内心に留まっているならば全く問題ない。「内心の自由」は自由社会の中核である。
そして思想の段階ならば相手を説得することが出来る。
石垣氏は何故、高橋洋一氏を説得しなかったのか。「席を外す」など誰でも出来る、大したことではない。本当に高橋氏が問題ある人物ならば彼を説得すべきではなかったか。思想の段階で留まるということは平和的解決が可能ということである。解決とは相手を規制することだけではない。
運動の段階でも「具体的な被害者」が生じない限り問題はない。具体的な被害者が生じた場合、民法・刑法等に基づいて対処されるだけある。
もっとも自由社会における「具体的な被害者」とは専ら具体的な個人を想定しており、例えば公道で空に向かって「○○人を血祭りにしろ」という表現は「具体的な被害者」が生じたとは言えないから、規制は不可能ではないが困難である。これが今、話題になっているヘイトスピーチである。
ヘイトスピーチはあくまで規制の方法論の問題であり「在日コリアンへの批判はヘイトスピーチだが日本人は違う」とか「マイノリティは差別しては駄目だがマジョリティは良い」という次元の問題ではない。あくまで「法の穴」を巡る問題に過ぎない。
運動が成功し体制の段階になっても日本国憲法は第14条で人種による差別を禁止しているから、特定の人種・国籍を根拠とした規制立法は制定出来ないし国会の立法権も
憲法的保障だから特定個人が立法権を独占することも出来ない。定例の国政選挙も同じく憲法的保障であり、およそ日本で独裁者になることは不可能である。
もし日本で本当にレイシズム・ファシズムを確立したいのならばそれはもう憲法を超えた存在になるしかない。
石垣氏とその周辺は憲法改正が実現するとレイシズム・ファシズムが確立するといいたいのかもしれないがこの次元になるともはや憲法の存在は無意味であり日本人が「法を超えた正義」を受容するか、否かの問題である。あくまで独裁は「法を超えた」地点にある。
今の日本人に「法を超えた正義」を受容する傾向はなくレイシズム・ファシズムの確立、特に後者はあり得ないと言える。
寛容な社会はレイシズム・ファシズム思想を否定しない
今回の騒動を受けて「寛容な社会を守るためにも不寛容を認めるべきではない」という指摘もあった。「○○社会を守る」といった体制防衛論はもっともらしく壮大な話であり、盛り上がるものである。しかし体制防衛論を議論する際に注意が必要なのは「守る」と言う用語である。
我々は「〇〇を守る」と簡単に使うが、この場合は守られる対象は我々より下位にいる。
守られる存在とは弱者である。「寛容な社会を守るべきだ」と主張する者は寛容な社会より上位にいる。言うなれば寛容な社会の「保護者」である。
だから「寛容な社会を守るために不寛容を認めるべきではない」という主張は暗黙に寛容な社会を超えた保護者の存在を認めている。
そして不寛容を拒否する手段として規制を認めるならば保護者は強力な規制権力となる。この規制権力は警察とは限らない。いわゆる「人権擁護機関」も含まれるし、むしろその可能性が高い。
寛容な社会を目指した結果、強力な人権擁護機関が幅を利かす社会になったら本末転倒であるし、その時点でもはや寛容な社会とは言えない。
だから寛容な社会を確立したいならばいかなる主義・主張も思想の段階で留まっているならば否定すべきではない。寛容な社会とはレイシズム・ファシズム思想を否定しない社会である。
参考文献
(1)「昭和期の政治」 伊藤隆 1983年 山川出版社 5頁
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員