2期目の台北市長選は98年だが、2年前の96年には台湾初の直接投票による総統選が行われた。国民党からは台湾本土派の現職李登輝と、中国との統一を主張する他の2人が出馬した。民進党は李登輝とも旧知の間柄で台湾独立を主張する大御所彭明敏を擁立した。
彭氏は李氏と同年、東大留学中に米軍の爆撃で左腕を失った隻腕の民主派運動家で、台湾帰国後の64年に逮捕されるも保釈中の70年、カルロス・ゴーンよろしく変装して欧州に脱出した逸話がある。陳氏は台北市長として全力で彭氏を応援した。
が、独立の動きを牽制しようと台湾近海でミサイル演習をした中国を、李氏は「国家テロ」と批判、国民に結束を呼び掛けた。強いリーダーを演出したことで民進党票も李氏に流れた。昨年1月、習近平の一国二制度演説に蔡総統が強く反発し、一気に支持率を上げたのと良く似ている。
彭氏に総統選で圧勝した国民党が2年後の台北市長選挙に擁立したのは、プリンスと呼ばれた元法務部長(法相)の馬英九。個性的だが決してハンサムとはいえない陳氏と違い、甘いマスクですらっとした馬氏は特に若い女性に人気があった。
交通、治安、教育、環境などの諸分野で改革を進めた陳氏は、国民党系の聯合報の世論調査でも「満足」が76%もあった。が、76万票対68万票で敗れてしまった。外省人の馬氏(香港出身)を李氏が「彼は新台湾人」と強調し情勢が変わった。浄化政策で既得権を失った者が多くいたことも影響した。
「台湾本土派」について。それは「台湾を本土として生きて行く」という理念だ。戦後、GHQ一般命令第1号で台湾の日本軍を武装解除した蒋介石は、日本の残地資産を接収、49年に共産党軍に敗れるまでに約200万人が外省人として渡台し、台北を臨時首都として大陸反抗の拠点とした。
その時点で、日治時代に本島人と呼ばれた台湾人は約600万人(約1割は原住民)。後に本省人と呼ばれる彼らは、8割が原住民DNAを持つとの研究もある台湾人だ。本土派とほぼ同義の台湾人アイデンティティーは、二・二八事件などを経て彼らの中に醸成され、00年の民進党政権で加速されたとされる。
で、00年の総統選挙のことになる。98年12月の台北市長選で敗れたものの、陳氏には党内外から00年の総統選への出馬の声が高まった。その筆頭は当時の民進党主席の林義雄。美麗島事件の被告でもあった林氏は政治テロで母親と娘が殺害された被害者でもあった。
林氏自身も総統選出馬を水面下で準備していたが、陳氏の落選を知るや事務所を訪れ、「台北市長がダメなら総統を目指そう」と述べた。「総統はあなたですよ。カバン持ちをやります」と応じるも、「総統選に勝てるチャンスがあるのは君だけだ」と林氏はきっぱりといった。
99年5月、民進党は総統選に勝つため党大会で「現実的な妥協」をした。党綱領に掲げた「台湾共和国樹立」という目標を事実上棚上げし、中華民国体制を容認したのだ。日本人には少々判り難いが、台湾人のいう独立には「大陸からの独立」と「国民党支配からの独立」の二つがある。
後者は「大陸反攻を目指した蒋介石の国民党の支配」からの独立だ。なぜなら国民党のいう「中国は一つ」とは「大陸も中華民国の一部」のこと。そして民進党は国民党の中華民国からも独立した「台湾共和国」の樹立を目指して結党した。その党綱領を現実的な路線に変えたのだ。
目下の蔡英文政権でも、副総統の頼清徳は台湾独立派の色が濃いが、蔡総統はより現実的だ。世論調査でも、大陸との統一は最も少数だが、かといって台湾独立や五輪への台湾名称での参加が最多かといえばそうはなっていない。最も多い意見は現状維持だ。
その蔡英文と選挙準備中に出会ったことが大きな収穫だったと陳氏は述懐する。99年8月、彼がWTOの勉強のため専門家紹介を民進党に頼んだ際、現れた講師が若き学者の蔡氏だった。党員でもなく政治に興味があるように見えなかったが、複雑なことを非常に冷静に解り易く説明してくれたという。
総統選当選後に閣僚の4分の1を女性にしようと思っていた彼は、蔡氏のことを思い出した。台湾と中国が同時にWTOに加盟する直前のタイミングだったので、彼女を大陸委員会主任委員にした。非常に能力を発揮し、2期目には行政院副院長に抜擢した。
蔡氏の大陸委員会主任委員としての実績の一つに「小三通」がある。「小三通」は01年1月に廈門と金門島(両門)の間で客船運航が行われた限定的な「三通」(通商・通航・通郵の意。08年の国民党馬英九政権で本格化し、台湾の中国依存を飛躍的に高めた)。蔡氏のカウンターパートは当時福建省長だった習近平だった。
00年3月の総統選で国民党は連戦を公認したが、実力者宋楚瑜は納得せず国民党を出て立候補表明し、割れた。が、99年7月、李氏が「台湾と中国は特殊な国と国の関係」(いわゆる「二国論」)を公表、「一つの中国」を事実上否定し、台湾海峡の緊張が高まった。
9月には台湾中部で大地震が起き、しばらくテレビには対策本部長の連氏しか映らなくなった。世論調査では1位が宋氏、次いで連氏、陳氏は3位だった。が、12月に宋氏の長男の海外口座に巨額な隠れ資金があることが明らかになり、不正蓄財の大スキャンダルに発展した。
その数週間前、連陣営から陳氏に宋氏の不祥事の内部資料が届き、「君の方から発表してほしい」と頼まれていた。スタッフは「不正追及の主役を演じるべき」と「連氏に利用されてはいけない」とで割れた。が、ネガティブキャンペーンを嫌い「発表しません」と連陣営に返事した。
連陣営は12月にそれを公表したのだが、この泥仕合で連氏も宋氏も支持率を下げ、00年3月の投開票では、陳氏が498万票で当選、宋氏は466万票、連氏は293万票だった。ここに半世紀以上に及ぶ中国国民党による台湾支配はついに終止符が打たれた。副総統は呂秀蓮だった。
本年1月に蔡英文が圧勝した総統選挙に、台湾独立派の「喜楽島連盟」呂秀蓮も、また宋楚瑜も立候補していたのをご記憶の方もあろう。00年にも陳氏は選挙期間中「台湾独立の主張」を棚上げした。が、相手陣営は「民進党政権が誕生すれば、必ず中国と戦争になる」と攻撃した。
国民を安心させ無事に政権をスタートさせることが重要と考えた陳氏は、すぐに李登輝を訪ね助言を請うた。「台湾の安全は二本の柱によって支えられている。一本は中華民国憲法、もう一本は国家統一綱領だ。この二本の柱を壊さなければ、その下で自由に動いて大丈夫だ」と李氏は述べた。
憲法を守るとは国名を変更しないことを指す。国家統一綱領を守るとは、国民党時代に決めた「将来は中国との統一を目指す」という対中基本政策を変更しないことだ。逆に言えば、この2つのことさえ守れば、中国が台湾を侵攻する口実がないということだった。陳氏の本心とは違った。
が、5月20日の就任演説では本心を胸にしまい、中国が台湾に対し武力行使の意図がない限り、任期中に「独立を宣言しない」、「国名を変更しない」、「二国論を憲法に入れない」、「独立の是非を問う住民投票を行わない」、「国家統一綱領の廃止という問題もない」と述べ「四不一没有」と報じられた。
実は中国側とも水面下で交渉していた、と陳氏は述べる。が、紙幅が尽きたのでその話は次回に。