なぜ「神」はコロナ禍で沈黙するのか

世界で5月末現在、600万人以上が感染し、約36万8000人の死者が出ている中国発「武漢ウイルス」について、宗教界、特にキリスト教会からの発言がほぼ皆無だ。世界各地で多くの人々が苦しみ、亡くなった家人を葬ることすらできな状況下にいる時、「心の世界」のケアを担当するキリスト教会指導者は沈黙しているのだ。

▲コロナ禍問題で神学的議論が乏しいことを批判するコッホ枢機卿(バチカンニュース、2020年5月30日)

信者たちが知りたいのは、「多くの人が新型コロナの犠牲となって苦しみ、死んでいる時、神は何を考え、何をしているのか」だが、その返答は宗教家たちからは聞かれない。辛辣な人なら、「宗教家の看板を下ろし、他の職業を探すほうがいいのではないか」ということになってしまう。

近代の精神分析学の道を開いたジークムント・フロイト(1856~1939年)は愛娘ソフィーを伝染病のスペイン風邪で亡くしている。その時の体験、苦悩を後日、「運命の、意味のない野蛮な行為」と評した。現代人は神に距離を置く人が増えたが、信者の中に新型コロナで何も語り掛けない神に失望する人が出てきても驚かない。イエスの復活や奇跡について饒舌に語る聖職者が新型コロナで苦しむ現代人に何も語らないとすれば、聖職者の神は聖典の中の神に過ぎず、今生きている人々とは無縁となるからだ。

バチカンニュースによると、ローマ教皇庁「キリスト教一致推進評議会」議長のクルト・コッホ枢機卿は多分同じように感じ出しているらしい。同枢機卿は「神学者や教会関係者は『新型コロナと神』との関係をテーマ化し、そこに宗教的な意味合いをくみ取ろうとする努力を避けている」と説明し、「(この問題では)教会は言葉を失っている状況だ」という。

聖職者が「第2次世界大戦後、人類への最大の挑戦」といわれる新型コロナの感染問題に関心がないからではないだろう。実際、多数の聖職者が新型コロナの犠牲となっている。コロナ禍は聖職者にとっても身近な問題だ。にもかかわらず、コロナ禍下の多くの信者たちに「コロナ禍と神」について何らかの説明や神学的見解を明らかにする聖職者が少ない。換言すれば、聖職者の義務を疎かにしているのだ。

キリスト教根本主義者の中には「新型コロナウィルスは神の刑罰だ」と強調する聖職者はいる。その代表はトランプ米大統領の最大支持基盤でもある福音派教会(エヴァンジェリカル)関係者だ。また、スイスのカトリック教会の超保守派聖職者マリアン・エレガンティ補助司教は自身のビデオブログの中で、「パンデミックは理由なく生じることはない。人間が神への信仰を失ったからだ」と主張している。「神の刑罰」説は教会では少数派だ。

発言内容の是非は別として、「神の刑罰」と主張する聖職者は、自身の信仰告白に基づいて語っている。何も説明しない聖職者より職業に忠実であるといえる。ただし、コッホ枢機卿が指摘するように、「神の刑罰説でコロナ問題と神との議論が終わるわけではない。コロナ禍では貧者、病人、高齢者が多く犠牲となっているが、その現実に対し、愛の神はどのように考えているか重要な問題が残されている」からだ。

ちなみに、オーストリアのカトリック教会最高指導者シェーンボルン枢機卿は、「われわれは旧約聖書『出エジプト記』が記述する『エジプトの疫病』のような事態を体験しているから、新型コロナは神の刑罰といった考えが出てくるが、コロナウイルスが神の刑罰とは考えられない。神はコロナ危機を通じて私たちに何かを悟るように促しているのではないか」と答えている(「新型コロナウイルスと『神』の行方」2020年3月23日参考)。

自然災害や戦争が生じる度、「神は何処におられたのか」という問いかけが神を信じる人々から出てきた。アウシュビッツ強制収容所で数百万人のユダヤ人が殺害されたが、生き残った多くのユダヤ教徒の中にはその後、神を失った人々が出てきた(「アウシュヴィッツ以後の『神』」(2016年7月20日参考)。

コッホ枢機卿は、「教会関係者が(新型コロナと神について)何も言えないのは、神が霊的世界だけに関与し、物質的、肉体的世界には関与されないといったグノーシス主義的神学の影響が強いからではないか」と分析している。グノーシス主義は西暦1世紀に出てきた神学であり、3、4世紀に地中海周辺で広がっていた。簡単に言えば、物質と霊の二元論の世界であり、霊は善であり、物質は悪の世界と考えていた。

「新型コロナの場合」に当てはめれば、「それは物質世界の現象であり、霊の神はそれには全く関係しない」という理屈で神の沈黙を説明するわけだ。コッホ枢機卿によると、「べネディクト16世は洗練された新グノーシス主義(subtiler neuer Gnostizismus)と呼んで批判している内容だ」という。

フランシスコ教皇は3月27日、新型コロナの終息のために祈りを捧げたが、神学者の中には「パンデミックとの戦いは医学との戦いであって、祈りではない」と批判する声が聞かれた。新グノーシス主義は政教分離の考えに近い。政治と宗教は互いに干渉しないように、神の世界と物質世界を完全に分離して捉えることで、「神の沈黙」を弁明する。もう少し突っ込んで言えば、聖職者は神と新型コロナ問題に言及することで、批判を受けることを恐れている。そこで、「沈黙は金」というわけだ。

いずれにしても、新グノーシス主義神学は「精神」と「物質」の2つの世界の関係を分断することで、「神」と「人間」の関係を益々、疎遠にさせる結果となっている。

蛇足だが、「同伴者としての神」を希求していた日本のカトリック教作家・遠藤周作の小説「沈黙」の世界は、「洗練された新グノーシス主義」の影響が強まっている欧州キリスト教会では、全く異文化の世界として受け取られたのではないだろうか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年6月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。