この記事は、連続記事の2回目です。1回目はこちら黒人差別の解決策が「警察予算削減」でいいはずがない
今回は、現状の差別解消運動がなぜ、単なる反政府暴動的なものにのっとられてしまうのか?について深く掘り下げて考えてみます。
社会を成り立たせている”見えない信義則”を軽視しないことが大事
私も昔は左翼風の「警察とかを国家権力の押し付けと見て反発する意識」があったんですが、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行する中で、他の国(たとえばアメリカ)だったらムチャクチャな治安状態になったりする階層でも、日本の場合は最低限の遵法精神と職務的勤勉さが維持されている「理由」を凄く「体感的」に理解したところがあったんですね。
そこには一緒になってこの社会を「住みよい安定感」のあるものにしようとするある種の「信義則」があって、それはこの社会に対するオーナーシップ(我がこととして考えている)的なものでもあるわけです。
「協力して治安維持をしていこうとするオーナーシップ」と「警官が横暴なことをしないようにお互い調整しようとするオーナーシップ」を”両方”持つことは、ある意味で「憲法」的なものを重視する政治姿勢そのもののコアでもあります。
今回のコロナ禍でも、アメリカでは何千万人もの失業者が出ていますが、日本では1万人とか2万人とかぐらいです。それぐらい、私たち日本人は「雇用」を通じてお互いを助け合って生きている。有形無形に張り巡らされた相互信義則が、日本社会を形作っているわけです。
私のクライアントの経営者の人たちも、この危機状況でも雇用を維持し続けることの責任とか、この10年で平均賃金を170万円も上げることができたとか、そういうことを真剣に考えている人がかなりいます。
もちろんそういう風に助け合うことが、「インサイダーでない人」にとって支援が弱い構造になってしまう問題はあるわけです。それを解決する時に、「その助け合いの輪をそのままもっと発展させていって外側にいる人を包含できるようにしよう」ならいいんですが、過去何十年と日本で行われてきた「アメリカを理想とする変革」は、そういう「助け合いの輪」を引きちぎろうとする「改革」ばかりでした。
結果として、経済学で言う「共有地の悲劇」のように、「誰もオーナーシップを持って我が事として社会を良い状態に維持しようとは思わない」社会になっていってしまう。
そういう風にやると、結局個人の能力でなんとかできる一部の強者の人以外は決して助けられない社会になってしまう。そうやって「アメリカ的な不幸」が生み出されないために、日本社会がどうしても閉鎖的になってしまう不幸も生まれていました。
だから、日本には「差別」がないとかそういう話ではなくて、「アメリカ人のやり方」で日本の現状を全否定するような運動しかないから、日本社会は閉鎖的に過去の延長でグズグズ自分たちのコアの価値を守らなくてはいけなかったのだという理解が必要なタイミングなんです。
過去数十年日本の「後進性」だと思われていた閉鎖的なところにある価値を、オープンで普遍的な文脈の中でいかに再生していくかが、これから大事になってくるはずだと私は考えています。
日本ならこういう方向性で改革を押し出していくべき
では、「アメリカ型」ではない日本人ならではのこういう問題への向き合い方とはどういうものであるべきなのでしょうか?
パキスタン系日本人(帰化済み)の方のツイートが話題になっていましたが、確かに日本でも外国人の外見の人に対して警察官が過剰に反応する例はよくあるようです。
ただ、この方が素晴らしいなと思ったのは、この記事で自ら述べておられるように、
職務質問は、犯罪防止や治安維持に役立つ業務の一つであり、日本に住んでいる以上、私は警察の方に協力をする義務があると考えています。
という態度をちゃんと示していることです。そのうえで、このツイートは本当に印象的で、むしろ感動すらしました。
そうとうな右翼の人でも「この態度」に反対する人は少数派だと思います。なぜなら「公平性」と「治安維持の信義則」の「両方」をちゃんと理解して敬意を払っている態度だからです。結果として、このツイートには「わかる。なんとかしたいよね」というコメントはあっても、ネットでよく見る暴力的な排外主義風のコメントはほとんどついていません。
世の中には果てしなく「反政府」が原理主義化した人もいるし、「反外国人」が原理主義化した人たちもいる。そういう「両端の果てしない過激派」から離れて、「良識」によって「ちょうど良さ」を一歩ずつ実現していくプロセスを実現していかないと、本当にこの問題を解決することはできないでしょう。
あまりに両極化が激しい今の人類社会においては、過激派活動家が一番嫌うようなタイプの「日本的」な解決のあり方こそがゴールになりえるはずだと私は考えています。
その「日本的」あるいは「アジア的」な解決法の価値観が、アジア系アメリカ人と「本国」とのインタラクションを通じて、「黒VS白」でにっちもさっちも行かなくなっていくアメリカ社会を変えていく端緒となるのではないか?という話を次回は書きます。
倉本圭造 経済思想家・経営コンサルタント
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