日本の僥倖
新型コロナ第一波がピークを過ぎ、世界が経済を再開し始めている。
日本は強制を伴うロックダウンをせず概ね「自粛要請」のみに頼ったにも係わらず、不要不急の外出と営業活動は抑制され、因果関係は未解明ながら第一波に対しては結果的に欧米等と比べて感染者数、死者数を少なく抑える事が出来た。なお一部には負の側面とし「自粛警察」が出現し問題視された。
一方の欧米諸国は、概ね罰則を伴うロックダウンを実行し、取り締まりは自粛警察ならぬ本物の警察官が行った。そして日本等のアジア諸国を遥に超える感染者と死者を出した。その違いの原因究明は別途これからの課題だ。
日本政府は、法律の未整備のためと補償を避けるためもあり、強制力を持たずに自粛、即ち国民各自に自ら粛む事を要請した訳だが、それは社会の同調圧力、山本七平が言った「空気の支配」、「世間教」と地続きであり、自粛警察は出るべくして出たものである。
村八分か魔女狩り・火炙りか
自然崇拝から生まれ島国の隔絶性の中で育まれた、「清き明き心」と「祓え給い、清め給え」の他には教義らしいものを持たない日本神道には、辛うじて「ハレとケ」という対立概念はあるが、基本的に構造を持たなく、そのため理論的思考の基盤が弱い。そして社会秩序の源泉は同質性と協調性にある。
一方、キリスト教等の一神教社会では、「神と悪魔」等のドギツい対立構造を内包しており、それは敵と味方を峻別し古代から殲滅戦、民族浄化の温床となると共に、理論的思考の基盤ともなった。そして社会秩序の源泉は神との契約と社会契約としての法にある。
それぞれの社会構造にメリットとデメリットがあり、それぞれが悪く表れると日本社会では村八分等となり、一神教社会では魔女狩り・火炙り等となる。両者には同じ側面もあるが日本社会では嫌悪の感情が集団の空気によってオーソライズされるのに対し、一神教社会ではその嫌悪の感情が一旦神に投げかけられ、自身や聖職者や指導者が正邪の判断を神から受け取り(受け取ったと信じ)、そのお墨付きを貰ってなされる所に違いがある。
なお、インドや中国は大雑把に言えば、仏教の十二縁起説、古代中国の陰陽五行説の様に、事象を多角的に分解した上で、これらを直列または並列に配置し包括的に把握する所に特徴がある。これは、それなりに社会の安定性に資する一方、同時に階層の固定化により停滞と腐敗を生み出し易い。
調和の原理と正義の原理
日本の集団性に関して、例えば3.11東日本大震災で、概ね略奪も起きずに被災者が整然と配給の列に並んだ事と、同時に起きた福島原発事故で責任が分散し、悪く言えば誰も明確な責任を取らずに終わった事はコインの裏表である。
先日、日経BPを見ていたら下記のようなアンケートがあった。
そこにコメント欄もあったので、筆者は次のような事を書き込んで置いた。
外出制限については、内閣の判断でON/OFF可能な法整備をして置き抜かずの宝刀で自粛ベースが日本社会にマッチしている。
一方、営業規制については、罰則と補償をセットとすべし。
なお、そもそも合理的な判断の下、過度な制限は避けるべき。
これは、コロナの第二波への備えとして、外出制限、営業規制に関しては概ね妥当な線なのではあるまいか。付随してテレワークや、各種の仕組み作りの推進等々も必要だろう。
話を拡げると、新型コロナによって、大袈裟に言えば日本社会の協調性と一神教社会の正義の概念、あるいは調和の原理と推進発展の原理、両者の違いが改めて浮き彫りになった感がある。
両者の融合はどっち付かずの虻蜂取らずの夢想に終わる感もあるが、これらを止揚して合と成すことの模索は、先行きの見通せぬ時代に方向性を与え、行き詰まっている具体的な世界の諸課題克服に資するのではないかと思われる。