ミハイル・スコヴォロンスキフ、タチアーナ・フレボーヴィチ 共著
約50年前、ロシア人は日本を再発見した。誇張にしか聞こえないこの言葉は実際、歴史的事実をうまく捉えている。というのは1970年、世界最大の読書者数を誇ったソ連で、あるエッセイが刊行され全国に波紋を投じた。以降何度も再刊を重ねた、フセヴォロド・オフチンニコフ著の『一枝の桜』という本のことである。
戦争を生き延びた世代
1926年、レニングラード(現:サンクトペテルブルク)で生まれたオフチンニコフ氏は、気楽な幼少期を過ごしたという。建築家の父に支えられていたオフチンニコフ一家は、地元の政界や芸能界で活躍する人物と交流しながら、典型的なソ連知識人の生活を送っていた。
ドイツがソ連に宣戦した1941年、15歳のオフチンニコフ氏は焼夷弾の処理に当たった。その翌年、レニングラード包囲戦がピークを迎えた時点で、もともと24人いた男子同級生のうち既に17人が落命していた。餓死しかけたオフチンニコフ氏はシベリアに疎開し、1943年に徴兵された。レニングラード海軍予備校に入校するや近視と診断され現役将校としての未来を閉ざされたオフチンニコフ氏は、赤軍外国語軍事研究所(現:ロシア国防省軍事大学)へ転校し、自ら中国語科を志望した。
当時、中国革命の前途が悲観され、国民党が勝算を高める中で、難解な中国語を望んで専攻する者は少なかった。その2年後、毛沢東率いる中華人民共和国の建国を受け、新米研究者オフチンニコフの卒論「中国におけるソ連文学」がソ連最有力の文学雑誌『新世界』に掲載されるほどの中国研究ブームが起こった。
1950年、林伯渠(リン・ボーチュー)を筆頭とする中国の代表団がモスクワを訪れ、ソ連の主要紙『プラウダ』の本社の見学へ赴いた。当日、通訳として動員されたオフチンニコフ氏は、林と『プラウダ』編集長のレオニード・イリイチョフに好印象を与えるのに成功し、27歳の若さでソ連最年少の国際記者となった。ロシアの国営テレビ局へのインタビューで同氏は語る。
「中国の言語文化に通じていたからこそ、第1次5ヵ年計画の新事業のロマンだけではなく、革命が5000年の歴史を有する国にもたらした根本的な変化までうまく説明できた」
と。
「プロ意識」
オフチンニコフ氏が入社した『プラウダ』は、ソ連共産党の機関紙としてプロパガンダ拡散の役割を担っていた。掲載される記事は、政府要人や文豪の運命を一変させるほどの影響力を持ち、党の最高決定機関である政治局の認可を経ることもあった。
「地雷の処理に当たる工兵と同様、どんな些細なミスでも許されることはない」と覚悟したオフチンニコフ氏は中国を巡る報道を担当し始めた。外国についての情報が政府によって統制・制限される状況の下、ソ連の国際記者たちは「メジュドゥナロードニキ」(国際派)と称され、今のタレントやハリウッド俳優に引けを取らない人気を享受していた。
また、一般市民とは違って、資本主義国家に長年滞在する特権を与えられていた。「メジュドゥナロードニキ」というエリートとなったオフチンニコフ氏は『プラウダ』の特派員として北京で7年、東京で7年、そしてロンドンでは5年にわたって取材し、輝かしいキャリアを築いた。
スターリン死後、ソ連は粛清の停止や独裁の緩和を伴った、いわゆる「雪どけ」時代を迎えることとなった。オフチンニコフ氏は、単なる国策の宣伝者としての地位に甘んじることなく、「海外生活について学ぶ方法」を国民に教える使命を感じたという。そして厳しい検閲体制から護ってくれたものは「プロ意識」であった。
「上司は、私の中国や日本への造詣が自分のをはるかに超えていることを感じ取って、ヘマを恐れて具体的な指示を憚った。創造の自由が保障される今でも、記者たるものは、上司よりは一倍、読者よりは数倍の知識を持たなければならない」
と同氏は回顧する。ソ連が崩壊して数年後、同氏の秀作5冊が再刊される際、編集者から「非ソ連化するように」との要請があった。「クレムリンの拡声器」とも言われた『プラウダ』のベテラン記者オフチンニコフ氏は、1000ページ以上のテキストを熟読し直して一行も変更せずに済んだという。
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ミハイル・スコヴォロンスキフ 日本研究者、コロラド大学ボルダー校大学院非常勤講師
1991年生まれ。米国際問題評議会(CFR)等に勤め、2015年、三井物産モスクワ有限会社に入社。その後、国立研究大学高等経済学校(在モスクワ)客員講師等を経て、現在、コロラド大学ボルダー校大学院非常勤講師、同学博士課程在学中。ロシア国際問題評議会(RIAC)エキスパート。
タチアーナ・フレボーヴィチ 三井物産モスクワ有限会社エネルギー課シニア・コーディネーター
1991年生まれ。モスクワ市立教育大学卒業後、2014年、三井物産モスクワ有限会社に入社。2012年、石川県国際交流協会の日本語日本文化講座終了。2013年、筑波大学の日本語・日本文化コミュニケーター養成プログラム終了。2013〜2016年、被爆者証言の世界化ネットワーク(NET-GTAS)メンバー。