行政は公文書の付属物か
学術会議が批判される最大の理由は同会議が法で定められた内容(使命・目的)を実現していないという疑惑があるからである。
これは極めて重大な話であり最優先に議論されなくてはならないはずである。
ところが野党、左派マスコミにその意識はなく手続きの話ばかりする。
最近では菅首相が推薦名簿を見ていないということを批判している。
批判の言葉も「文書の改ざん」といった強いものであり、公文書管理の問題に話を移行させようとしている。
公文書、この言葉は2017年の森友学園を巡る土地取引の議論以降、政治において非常に大きな意味を持つようになった。森友学園に続く加計学園、桜の会も全て公文書に関する話である。筆者はこの公文書の議論を訝しげに見ていた。
森友学園騒動以降の公文書の議論を聞くと行政がまるで公文書の付属物のような扱いを受けていると錯覚するほどである。
行政は法の内容を実現するのが仕事
行政は法を根拠に活動する主体であり、その法には行政が実現すべき内容が定められている。
筆者が所属する地方公共団体ならば地方自治法に
「地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。」
と定められているし、経済産業省ならば経済産業省設置法に
「経済産業省は、民間の経済活力の向上及び対外経済関係の円滑な発展を中心とする経済及び産業の発展並びに鉱物資源及びエネルギーの安定的かつ効率的な供給の確保を図ることを任務とする。」
と定められている。
行政はあくまで法の内容を実現する主体であり、公文書管理もその手段の一つに過ぎない。公文書管理を優先して無駄な業務を行い、法の内容が実現できなければ本末転倒だろう。
言い方を変えれば法の内容を実現するために「不要な公文書は作成しない」「流出した場合、多大な損害が生じる公文書は速やかに廃棄する」といった判断を下すことは必要である。
森友学園騒動以降の公文書管理の議論ではこの視点が欠けている。
そもそもなぜ行政がこの活動するのか、根拠法には何が書かれているのかといった議論がされることなくただただ「記録がない! 文書が廃棄された! 民主主義の終わりだ!」といった声がまかり通っている。
行政がどの程度の公文書を作成、取得、保管するかは法の内容を斟酌して決定すべきである。そうしなければ行政事務は成立しない。
行政が残すのは公文書だけではない
公文書管理の議論でよく耳にするのは「後世の検証」という言葉である。
なるほど、「後世の検証」は必要である。だから公文書を作成するのはもっともなことである。後世の人間のためにも公文書は可能な限り残すべきだろう。
しかし、忘れてはいけない。行政は後世の人間を相手にする前に現在の人間の相手をしなくてはならない。
後世の人間を意識して無駄な公文書の作成を行い現在の人間に悪影響を与えてしまったら本末転倒である。実態のない後世の人間より生きた血の通った現在の人間を優先するのは当然である。これは危機管理を想像すれば容易に理解できるのではないか。
重要なのは行政が現在の人間を相手にするときに要するのは公文書だけではなく、具体的なヒト・モノ・カネも伴うことである。例えば地域イベントに職員を派遣する、学校を建設する、用地買収の交渉をする、補助金を支給するのである。
そしてこれらの活動で得た建物、土地、資機材が後世の人間に残されるのである。
行政が後世の人間に残すのは公文書だけでない。公文書管理の議論では行政の役割があまりにも矮小化されている。手段と目的が逆転している。
学術会議の議論でも同じことが起きている。「内閣総理大臣に提出した推薦名簿」から学術会議を論ずると本質を見誤る。
必要なのは学術会議という行政組織から「内閣総理大臣に提出した推薦名簿」を論ずることである。
そうしなければ公文書管理の主張は単なる議事妨害とみなされるだけだろう。