4月6日、米国務省のプライス報道官は、記者会見で、来年2月の北京冬季五輪について、中国の人権問題(新疆ウイグル自治区におけるウイグル族への弾圧や香港の人権問題など)への懸念を示した上で、ボイコットする可能性を米国の同盟国との間で協議したいとする意向を示した。
このニュースについて、国際政治学者の三浦瑠麗氏は、Twitterで「正直、愚かな動きだとしか思えない。 自分たちの政権だけで、冷戦中も列強の対立の時代も、平和の祭典として連綿とつづいてきたオリンピックの歴史を覆そうとするとはね。単に傲慢なのか、頭に蝶々が飛んでるのか。」(4月7日)と、ボイコットの動きを批判した。
また、同日には「中国のような大国を永遠に排除し続けられるとか、オリンピックのボイコットによって内政における行動を変えさせることができると考えること自体がナイーブさの塊です」「バイデン政権がウイグル弾圧を理由にボイコットしたら、戦争と内政の間に引かれた一線を踏み越えてしまう。スターリンによる処刑弾圧とソ連のアフガン侵攻の間には違いがある。オリンピックは戦争を食い止める一つの手段であって理想を体現するための外交手段ではありません。」とツイートされている。
しかし、私は三浦氏のこれらの発言に異議がある。先ず、1つ目は、もし一部の欧米諸国などが北京冬季五輪をボイコットしたとしても、おそらく「オリンピックの歴史を覆す」(五輪中止の意味か?)ような事にはならないということだ。
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1980年のモスクワオリンピックの時も、ソ連によるアフガニスタン侵攻を受けて、アメリカ・日本・中国・西ドイツなど50ヶ国がボイコットしたが、ソ連は五輪を開催した。おそらく、中国も欧米諸国や日本がボイコットしたとしても、開催を強行するだろう。
三浦氏は、ボイコットの動きを「平和の祭典として連綿とつづいてきたオリンピックの歴史を覆そうとするとはね」と何か前代未聞のような感じで書かれているが、近年の歴史のなかでも見られたことであり、それほど大仰に表現することではないと感じる。
また、三浦氏は、ボイコットによって、中国の「内政」における行動を変えさせることはできないと説く。これは確かにそういう面もあるだろう。モスクワ五輪をボイコットしても、ソ連のアフガン侵攻は続いたように、北京五輪をボイコットしても、中国の「暴走」は続く可能性もある。
しかし私はそれでも、北京五輪のボイコットには賛成だ。あのナチスドイツですら、ベルリンオリンピックを開催したいがために、ユダヤ人に対する迫害政策を凍結したことがあるからだ。一時的かもしれないが、中国共産党政府の圧政を緩めることができる可能性もゼロではない。
自国民、少数民族を虐待したり虐殺する行為は許さないぞと声をあげ、ボイコットすることは「傲慢」とか「頭に蝶々が飛んでる」と表現されるようなことなのだろうか。
そんなことはあるまい。
残虐な振る舞いを少数民族や国民に行う政府は、オリンピックを完全に開催できないことを知らしめる良い機会ではないか(ちなみに、仮に、ミャンマーの首都でオリンピックが開催されるとしても、各国はオリンピックをボイコットするべきだと考える。軍事政権の治安部隊による自国民の虐殺が続いていることがその理由だ)。
「民族弾圧を止めてね」と文句を言っても「はい、そうします」と素直に聞くような中国ではない。かと言って、いきなり戦争を仕掛けるのも、あり得ない話だ。
先ずは、その中間、諸外国が団結して、中国に対し、抗議(制裁やボイコットなど)の姿勢をとるのがあるべき姿ではないのか。
「ウイグル族の弾圧」は「内政」と言う理由で、ボイコットという抗議をしてはいけない理由は何であろうか。「戦争と内政の間に引かれた一線を踏み越えてしまう」ことは何がいけないのか。無学なのか、私には分からない。
自国民や少数民族の弾圧、そして戦争にも、おかしなものにはおかしいと声をあげ、反対するべきではないのか。私は純粋にそう思うのである。
ウイグル問題は「内政」と矮小化できるものではないだろう。民族の弾圧、虐殺が行われているのだ。中国共産党政府は、ウイグル問題を「内政」とし、口出し無用の姿勢をとっているが、それに迎合・賛同することは、中国の思う壺なのである。