今回のコラムは純粋に宗教的テーマだ。当方は最近、Netflixでウルトラ・オーソドックスユダヤ教徒の家族の話「シティセル」と救い主を描いた「メシア」を観た。その2本のTV番組の中で頻繁に登場する“So Gott will”(=独語、英語ではGod willing)という表現に非常に心を惹かれた。日本語に訳すとすれば、「神が願うように、神のみ心に委ねて…」という内容になる。明日、明後日はどうなるか、私たちは知らない。次の週、数カ月後、何があるかを、私たちは確かに分からない。私たちは一生懸命働き、多くのことを成し遂げるが、人生の多くの本質的な側面には影響を与えることはできない。何が生じるかといった事に対して、神の手に委ねる。それが“So Gott will”といった表現となるわけだ。
少し無責任な生き方のような響きも感じるが、So Gott willの背景を調べると、なかなか深い意味合いがあることが理解できる。そこで、“So Gott will”について読者の皆さんと考えてみたい。
ドイツ語圏では昔、将来や未来のプロジェクトについて話す時、人々は“So Gott will”といった内容の言葉を付け加えた。旅行計画やその他の将来のプランを扱った手紙では、最後に「SCJ」という3つの文字が追加されることがよくあった。ラテン語の略語:sub conditione Jacobea(=ヤコブの条件で)だ。
それでは「ヤコブの条件で」とは何を意味するのか。“So Gott will”という内容は、おそらく新約聖書「ヤコブの手紙」の中で詳細に説明されているからだ。ヤコブは使徒たちに自信を持ちすぎて傲慢になることを警告し、「計画されたすべては『もし神が願われるならば…』という条件のもとで行動すべきだ」と諭しているのだ。そこから「ヤコブの条件で」という表現が生まれてきたのだろう。
ただし、そのような表現は今日、ドイツ語ではめったに聞かない。ただ、オーストリアに住むアラビア系住民の間では頻繁に聞くことができる。So Gott willの内容はアラブ語ではイン・シャー・アッラー(In schā’ Allāh)だ。この表現は、オーストリアのイスラム教徒の間では珍しくない。ドイツ語の辞書Dudenにも掲載されている。
それでは、ユダヤ教ではどうだろうか。ヘブライ語聖書や旧約聖書には、多くの神の名前が登場する。神はモーセに「YHWH」という固有名詞を明らかにする。モーセの前に生きていたアブラハム、イサク、ヤコブでさえ神の名前を知らなかった。4文字のYHWHを発声することにより、Yahwehという名前が再構築されていったわけた。
ヘブライ語では、YHWHという名前は、「彼はそこにいる」または「彼はそこにいるだろう」と聞こえる。第三者の単数形または未来形での動詞「to be」ハジャ(またハワ)のように聞こえる。もちろん、神は一人称で自分のことを語っているので、「私はそこにいます」と言うわけだ。
旧約聖書では、この神YHWHの正式な名前は6828回出てくる。しかし、一般名エロヒム(神)は2602回しか出てこない。ポツダム大学のユダヤ教の宗教哲学教授であり、ユダヤ神学部の所長のダニエル・クロイエルニク教授によると、「YHWHは旧約聖書の中では最も一般的な名詞だ」という。
新約聖書、タルムード(口伝律法)、コーランでは、神の個人名は、もはや表示されていない。カトリック神学者であり、スイスのエジプト学者であるオトマール・ケーㇽ氏は、「3宗派は一神教だから、名前は必要ないからだ」と述べている。人々や子供たちが「パパ」と叫ぶとき、神が意味されており、他の神がいないことを既に知っているからだ。他の神々がいる場合、適切な名前が必要となる。それは一神教が誕生する前の古い時代を意味することになるわけだ。
ユダヤ人はYHWHを発音しない。聖書を読んでYHWHと書いてあるのに、代わりに「アドナイ」(主)と言い、祈りでも同じだ。日常のコミュニケーションでは、YHWHの代わりにハシェム(名前)と言う。したがって、「もし神が願うならば」の代わりに、「もし名前が願うならば」(eem yirtzeh haShem)と言うわけだ。
畏敬と尊敬の念から、神に対して固有名詞で呼びかけることはしない。なぜならば、通常、固有名詞ではなく「父/パパ」または「母/ママ」で、父と母に話しかけるように、神の場合もそうだというわけだ。
2008年6月29日に発表されたカトリック教会司教会議のガイドラインによると、旧約聖書の神の名前「YHWH」は、ユダヤ教とキリスト教の伝統を尊重するために、カトリックの典礼でも発声されるべきではないと指摘している(英YHWH、独JHWH)。
ちなみに、イスラム教には99の神の名前(特性)がある。例えば、病人の場合、99の神の特性の中から「病を癒す神よ」と呼びかけて祈る。敬虔なイスラム教徒は99の神の特性を諳んじている。アッシジのフランチェスコは1219年、旅先のエジプトでイスラム教には99の神の特性があることを知って感動している。ただし、神の100番目の名前(特性)は言い表せないものであり、人々はそれを知らないということになっている。
以上、So Gott willの背景について、宗教学的に言われている内容を紹介した。“So Gott will”(God willing)―この表現には途方もない力がある。「神の手に委ねる」という考えは、われわれの肩から重荷を取り除く。それは弱さや諦めを意味するのではなく、「私はそこにいる」という神を信頼し続ける“強さ”を意味しているからだ。
現代人はストレスの多い社会に生きている。時には、疲れを覚える。そのような時、神に委ねる、自分は神の手の中にある、といった世界で生きて行けるならば、少しは楽だろう。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年9月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。