ウクライナ戦争で「中立」あり得るか

オーストリアのネハンマー首相は近い将来にウクライナを訪問するという。ウクライナのゼレンスキー大統領は4日夜、国民向けのメッセージの中で明らかにした。欧州連合(EU)の首脳が戦争中のウクライナの首都キーウを訪問するのは初めてではない。ポーランド、スロベニア、チェコの3国首脳が3月15日、ウクライナを訪問してゼレンスキー大統領と会談し、ロシア軍の攻撃を受けるウクライナ国民に連帯を表明している。ネハンマー首相のウクライナ訪問が実現すれば、欧州4カ国の中立国(スウェーデン、フィンランド、スイス、オーストリア)の首脳としては初めてとなる。

オーストリアのネハンマー首相(オーストリア連邦首相府公式サイトから)

ゼレンスキー氏はネハンマー首相と電話会談した後、同首相の「近い将来」ウクライナ訪問を発表した。4日はウクライナの首都キーウ近郊のブチャでロシア軍によって拷問され、射殺された多数の遺体が見つかったことが明らかになった日だ。ネハンマー氏は同日、「絶対に許されない戦争犯罪だ」とその衝撃を明らかにした直後、ゼレンスキー大統領に電話で会談したのだろう。すなわち、「ブチャの虐殺」が大きなきっかけとなってネハンマー首相のウクライナ訪問が急浮上してきたのではないか。

オーストリアは第2次世界大戦の終戦後、10年間の4カ国占領統治(米英仏ソ)時代を経て、1955年、中立を宣言した。冷戦時代、オーストリアは中立国家として東西の橋渡し外交を推進、ジョン・F・ケネディ・フルシチョフ米ソ首脳会談が1961年6月ウィーンで開かれた。その一方、ソ連・東欧共産国からの政治亡命者を積極的に受け入れてきた。そして首都ウィーンに「第3の国連都市」を構築し、国際原子力機関(IAEA)など国連機関を誘致、国連主導の平和維持軍の活動にも積極的に参加してきた。

ロシア軍がウクライナ侵攻した直後、多くの欧州国は、「欧州の地で戦争が再び始まった」として衝撃を受ける一方、英国、フランス、ベルギーなどは軍事的に守勢のウクライナに武器供給を実施。当初武器供給に難色を示していたドイツも防衛用武器の供給に乗り出した。

ネハンマー首相は当時、記者団の質問に答え、「わが国は軍事的には中立国だから、紛争地に武器を供給することはできないが、政治的には中立ではない」と表明し、ロシア軍のウクライナ侵攻を批判する一方、ウクライナへの人道支援を実施してきた(オーストリアはロシアからの天然ガスの輸入禁止には反対している)。

ウクライナ危機は欧州の中立国にも大きな影響を与え、スウェーデンやフィンランドは北大西洋条約機構(NATO)加盟を模索し出す一方、戦後から軍事安保問題では消極的だったドイツも軍事費予算のアップなどを実施、欧州の安全問題に積極的に関与してきた。アンナレーナ・ベアボック外相(独「緑の党」)は、「この紛争では誰も中立であることはできない」と警告している。

ところで、日本ではウクライナ危機が発生して以来、「ロシアもウクライナもどっちもどっち」論が結構聞かれる。時にはウクライナ戦争の背後にはディ―プステート(DS)が暗躍し、戦争を煽っている、といった意見も聞く。同時に、近代史を開き、「あの時はこうだった」「米国は不法な軍事活動を行った」云々といった論理を振り回す知識人が結構多い。彼らが絶対に受け入れられない論理は紛争を「善」と「悪」で分け、「悪」と指摘された国をバッシングすることだ。ウクライナ戦争ではゼレンスキー大統領を中心としたウクライナが「善」側、軍事侵攻をしたロシアのプーチン大統領が「悪」側といった捉え方に強い反発をする人々だ。現代は不可知論が有神論、無神論より人気がある時代だ。ただ、その行き着く先にはニヒリズム(虚無主義)と価値の相対化の世界が待っている。

戦争は相互に多くの犠牲者が出るから、戦争自体は悪だ。その悪の戦争を最初に始めた側には責任説明が当然出てくる。プーチン氏の戦争宣言に根拠があるとはいえない。その意味で、ロシアには戦争責任がある。国際社会がロシアを批判するのは当然だ。それに対し、一方的に国際社会から批判されるロシア側に同情し、「ロシアだけが悪いのではない」といった中立的な意見だ。

新約聖書「ヨハネの黙示録」第3章15節には「わたしはあなたの業を知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」という聖句がある。「善」でもなく、「悪」でもないとは「なまぬるい」ことを意味する。

神はその善と悪の基準としてモーセに十戒を与えたわけだ。そこには「人を殺すな」、「姦淫するな」、「盗んではいけない」、「隣人に対して偽証してはいけない」、等が記述されている。キリスト教だけではない。世界の高等宗教には同じような戒めがある。

ただ、この「善」と「悪」の二元論を現実の世界に当てはめていくと難しい面がある。「分かっていてもできない」といった状況にあるからだ。“聖パウロの嘆き”のように、わたしたち自身が“心の戦場”にいる。極端に表現すれば、ウクライナで戦争が終わり、平和が回復されたとしても、わたしたち一人一人が平和であるかは別問題だ。

ネハンマー首相のウクライナ訪問の話から少し飛んだが、私たちは本来、何が善で、何が悪かを宗教指導者から教えられなくても知っているはずだ。何をすればいいのか、何をしたらいけないのかを。ウクライナ戦争でも同じことが言える。中立ではあり得ないのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年4月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。