私は、父親が弁護士であった。そのため、弁護士とは何か、ということについて、父と話をしたり、父を見て感じたりしたことが、多々ある。そのため、大阪で、橋下徹氏の弁護士界隈での評判を聞いたときには、非常に残念だった。
弁護士が日々ツィッターで他者に罵詈雑言を浴びせ続けている姿は、私にとっては、異様なものだ。
しかも、自分に都合の悪いことは、絶対にふれようとはしない。
さらには相手が一度も使っていない単語を並べ、相手の名前を自分が作り出した物語にのせて罵倒して見せるのも厭わない。
弁護士という仕事は、本来、他者から信頼されなければ成立しない仕事だと考えていた。しかし最近は、このタイプの方こそが「実践的交渉力」の証明であるらしい。
私は、一カ月ほど前に橋下氏のウクライナ降伏論について批判的な文章を書いたため、橋下氏の逆鱗に触れ、執拗に扇動的な言葉を投げかけられることになった。
橋下氏が、私の知能の低さを何万回ツィッターで連呼しようとも、特に社会的な害悪はない。私自身も、何ら関心がない。単に関わりたくないと思うだけだ。それはいい。
ただ、繰り返しウクライナ情勢について奇妙なことを主張し続けるのは、困った話だ。非常に社会的な害悪が大きい。
なぜ橋下氏は、このような人物なのだろうか?
数日前、私は、この問いに答えるカギは、橋下氏が信奉する司法試験予備校経営者の伊藤真氏にあるのではないか、と示唆した。橋下氏と「憲法学通説」のつながりこそが、なぜ橋下氏があのような人物であるかを解き明かすカギなのではないか、と示唆した。
この指摘について、橋下氏は、自分が改憲論者であることは篠田は知らないのか、といったレベルでの反論をしたようだ。だが私が指摘しているのは、そういう表層的なことではない。思考のパターンが伊藤真氏に影響されているのではないか、ということだ。
改憲論や新自由主義をふりかけにしながら、「機会主義的に行動する伊藤真氏の弟子」、というのが、私の橋下氏の印象である。
憲法学者の木村草太氏との対談集『憲法問答』の中の一節(232頁)を引用してみよう。
・・・司法試験受験予備校でカリスマ講師として人気を博していた伊藤真さんの授業を、ビデオテープやカセットテープで聴いていた。僕が当時抱いた感想は「伊藤さんは、今の日本国憲法、憲法9条にほれ込んでいるな」というものだった。そして「ひとつのケーキをふたりで分ける際にケーキを完全に真っ二つに割ることはできない。そこでふたりのうち、ケーキを切らなかった者から先に選ばせる、すなわちケーキを切った者が後から選ぶというプロセスにする。そういうルールにすればケーキを切る者は、自分のケーキが小さくならないように真っ二つに割ろうと限界まで努力するし、ふたりはこのケーキの分け方に納得する。これが適切手続きという考え方だ」という伊藤さんの話に、僕は衝撃を受けた。そこから・・・自分の憲法論を確立し、政治家時代の僕の政治論や選挙論に繋がっていく。・・・僕がこれまでにやってきた政治や、今も持っている政治思想の背骨は、この伊藤さんからの教えに拠っている。
確かに、橋下氏は改憲を論じるし、機会主義的だ。しかしそれでも、橋下氏は、「伊藤さんの話」を人生の指針としている。橋下氏は、機会主義的な伊藤真氏の弟子なのである。
橋下氏の言う「伊藤氏の話」について、よく見てみよう。そうすると、この話の実際のポイントが、誰がケーキを切るか、という点にあることがわかってくる。
本当に適正なプロセスを確保するなら、自らはケーキをとらない公平な第三者が、最大限の努力で半分に切り分けなければならないはずだ。しかし橋下氏の「伊藤氏の話」では、ケーキを食べる者の一方が、ケーキを切る。ケーキを切らない側は、オファーを拒絶することはできるかもしれないが、常に受け身である。「ケーキを切る者」には、大きな裁量の余地と、圧倒的な主導権がある。
「君は、頭が悪いな、ケーキはひとかけらもあれば十分だな、なに?それでは嫌だ?そうか、それならもう少し多く切り分けてやろう」、といった「実践的交渉力」を、「ケーキを切る者」は発揮することができる。
橋下氏が法律家を目指すようになったのは、学生ビジネスで不渡手形をつかまされ、訴訟を起こしたときだったという。確かに法律というルールに習熟すれば、訴訟を通じて自分が「ケーキを切る者」になって、「実践的交渉力」を発揮していくことができる。
自分に有利なルールのある場所でケーキを切る機会を設定することが、自分が「ケーキを切る者」になることである。
万が一、ケーキを切るルールが「学術論文を書くこと」だったら、学者が「ケーキを切る者」になってしまう。それどころか、140文字以上の文章で勝負するルールにするだけで、橋下氏は不利だ。他方、260万人のフォロワー数を持つ橋下氏にとってみれば、相手を「ツィッターでの論争」に引き込んでしまうことが、圧倒的に有利である。時には汚い言葉を使って相手を挑発してでも、自分の得意領域に引き込むことが「ケーキを切る者」になる術だろう。
もちろんテレビや選挙も、橋下氏の得意領域である。
まず相手をどうやって自分に有利なルールがある場所に引き込むか。それが橋下氏の「実践的交渉力」のポイントである。
通説にこだわる憲法学者と話をしていると、憲法の解釈を決めるのは憲法学者の多数説だ、というルーにこだわっていることに気付く。逆に言えば、このルールが通用しない場に出ることを非常に警戒しているし、このルールが崩されることを極度に嫌う。彼らは自分たちが「ケーキを切る者」であることに、非常に意識的である。
だが残念ながら、国際社会のルールは、日本の法律ではなく、国際法によって成り立っている。国際問題は、国際法にしたがって理解し、解決するのがルールである。憲法学者は手を出せない。橋下氏にとっても、得意領域ではない。そこで橋下氏は、どうするか。国際法のルールにしたがってケーキを切るやり方を唱えるだろうか?
唱えない。むしろ憲法学者にならって、国際法の法的性格に疑念を投げかける。
そこで橋下氏は、やみくもに、力関係で、「ケーキを切る者」を決めていくやり方を主張する。ロシアとウクライナの関係であれば、ロシアが「ケーキを切る」。ウクライナは降伏のオファーを受け入れるしかない。もっとも、「伊藤さんの話」理論にしたがえば、「ケーキを切る者」であるロシアも、最大限の努力で適切に占領しようとはするだろう。古典的9条論に依拠した空想的な仮説である。
もし、この「妥結」を避けるというのであれば、NATOが出てきて「ケーキを切る」しかない。そこでNATOは、ヨーロッパというケーキを切るにあたり、ロシアに対して最大限の努力で適切に東方拡大を調整しようとするだろう。この勝手な空想の見取り図に、東欧の複雑な政治事情はもちろん、東欧の人々の気持ちも、何ら視野に入ってこない。
これが橋下氏の「妥結」の国際社会である。もし、NATOが橋下氏に逆らって、「妥結」を持ってこないのであれば、橋下氏は苛立つ。
憲法学の発想方法は、単一の主権者を求める。そしてその主権論にしたがって「ケーキを切る者」を決める。橋下氏も同じだ。この発想にもとづいて紛争調停を図り、問題解決を狙う。ところがこの発想方法は、主権者が200近くある社会の法である国際法では同じようには適用できない。そこで橋下氏は、だったら国際法を参照するな、と命じる。ところが、それにもかかわらず、「ケーキを切る者」を決めて「妥結」を図れ、と錯綜した命令も下す。
客観的に言って、これは橋下氏の世界観にもとづく一方的な無理筋の命令にすぎない。現実に国際社会の実務に携わる人々は、国際法をそんなに簡単に消去することはできないし、ウクライナの存在をそんなに簡単に消去することもできない。一方、現実のNATOは、橋下氏のために自由自在にケーキを切って、ロシアとの「妥結」を簡単に持ってくるような存在ではない。
そもそも橋下氏が、頼まれてもいないのに、「お前がこうなるようにケーキを切れ」と指図し続ける必要がない。しかし、「ケーキを切る人」として生きていくことが橋下氏の人生の目標であり、あるいは人生そのものになっているので、評論家として行動する際にも、どうしても「お前がこうなるようにケーキを切れ」、と仕切り屋になる以外の評論の仕方を知らない。本来の当事者の意向や、利益や、気持ちを汲み取るといった姿勢などは微塵もない。ただ「俺に仕切らせろ」だけが前面に出てくる。
この橋下氏の「俺に仕切らせろ」の考え方に染まった目からは、こうした現実や国際政治学者の態度は、全く理解できないものだ。妥結せよ、妥結せよ、妥結せよ。そう唱えながら、結果として、橋下氏は、日々いら立ちを募らせていく。
国際政治の厳しい現実の中では、紛争当事者たちは、橋下氏の言うことを聞かないどころか、「ケーキの切れない人」や、「ケーキを切ると嘘を言う人」であったりするかもしれないくらいなのだ。しかし、そんなことは、橋下氏の「伊藤さんの話」だけの世界観では、一切考慮の対象外である。橋下氏は、ただひたすら「俺にケーキの切り方を仕切らせろ」を声高に主張し続ける。
ああ、その結果、何が起こるか。ウクライナ情勢は、橋下氏の説教とは全く別に進んでいく。そして橋下氏は、今日もまた、国際政治学者あたりを題材にして、ツィッターやテレビを通じた罵倒を続けていくことだろう。