ロシアのウクライナ侵略は「予防戦争」である

野口 和彦

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我が国のロシア・ウクライナ戦争の原因分析で決定的に欠けているのは、「予防戦争」の視点である。予防戦争とは、将来に闘うのは不利であり、今、戦争を始めた方がマシであるという国家の指導者の動機から生じるものである。第1に、バランス・オブ・パワーが不利に傾く状況において、追い詰められた国家は、予防戦争のインセンティブを高める。第2に、こうした国家が限定的で局地的な軍事優勢を保持している場合、迅速な勝利に期待して予防攻撃に訴えやすくなる。ロシアのウクライナ侵略は、この予防戦争理論で説明することができるのだ。

リアリストのジョン・ミアシャイマー教授(シカゴ大学)やスティーブン・ウォルト教授(ハーバード大学)は、ロシアのウクライナ侵略の主因が、NATOの東方拡大によるバランス・オブ・パワーの変化にあると見ている。他方、マイケル・マクフォール教授(スタンフォード大学・元米国駐ロシア大使)らは、西側のウクライナの民主化支援がロシア侵略の原因だと主張しており、我が国の少なからぬ「国際政治学者」は、リアリストの仮説を退けるか、マクフォール氏を支持している。こうした競合する議論を現時点で入手できる証拠により検証すると、リアリストの予防戦争論がより説得的なのである。

NATO東方拡大は、バランス・オブ・パワーでロシアを追い込んでしまった。GDP、軍事支出、現役兵力、人口で、NATO諸国はロシアを圧倒している。この絶望的な劣勢はプーチンを不安にさせるに十分であり、予防戦争の動機になり得るものである。

リアリストが主張するように、これだけの優越的パワーを持つNATOが東方に拡大してロシア国境にじわじわと迫ってきたら、いくら冷酷な独裁者プーチンといえど、不安を感じても不思議ではない。しばしば指摘されるように、独裁者は意外とチキンなのである。

ここで注意しなければならないのは、パワー不均衡下では、防御的措置が攻撃的なものと誤認されやすいことだ。NATO加盟国が、いくら同盟の拡大は防御的だと言っても、ロシアには潜在的な脅威にうつる。

こうした意図せざる敵意のスパイラルは、リチャード・ルボウ教授(キングス・カレッジ)が「戦争の蓋然性は不安定な軍事バランスの下で高まる…防御を意図した措置でさえ、他国から侵略的だと見做されるかもしれない…そうした国家は早めに行動しなければ手遅れになると、ますます不安に駆られるものだ」と指摘する通りである。NATO拡大と英米のウクライナへの軍事支援は、ロシアを抑止するのではなく、かえって挑発してしまったのだろう。

また、プーチン大統領が行ったウクライナ侵攻演説も、予防戦争理論を裏づけている。

NATOが東に拡大するにつれ、我が国にとって状況は年を追うごとにどんどん悪化している…NATOの指導部は…軍備のロシア国境への接近を加速させている…NATOが軍備をさらに拡大し、ウクライナの領土を軍事的に開発し始めることは受け入れがたい。

マクフォール氏は、この発言を「ロシアのウラジミール・プーチン大統領は、2月24日のウクライナ侵略がNATOのせいだと、あなたたちに信じ込ませようとしている」と退けている。しかしながら、ロシアの歴代指導者は、NATO拡大はロシアの死活的利益を脅かす旨、ほぼ一貫して主張してきた。ミハエル・ゴルバチョフ元大統領は、NATO拡大を新帝国主義と強く非難した。ボリス・エリツィン元大統領もNATO拡大は重大な間違いと懸念を隠さなかった。政治指導者の発言には、プロパガンダが必然的に含まれるので解釈には注意が必要だが、プーチン発言が全面的にディス・インフォメーションである証拠は、今のところない。

さらに、国家は局地的に軍事力で優っていると、全般的なパワー・バランスで不利であっても、戦争に走りやすい。おそらく、プーチンや側近たちはNATO諸国の介入は核兵器の脅しで抑止でき、軍事力で大幅に劣るウクライナに限定した戦争なら勝てると踏んだのだろう。プーチンの「今でも、世界で最大の核保有国の1つだ。そしてさらに、最新鋭兵器においても一定の優位性を有している」との発言は、こうした推論の妥当性を示している。

他方、民主主義の波及を恐れて、プーチンが戦争を始めたとする仮説については、これと合致しないデータがある。フリーダム・ハウスの調査によれば、ウクライナは「民主化途上かハイブリッド体制」だったのだ。ウクライナの2022年の民主主義度は39/100にすぎない。民主主義スコアは4/7と、残念ながら高くない。市民の自由度も「部分的」で35/60である。このデータからして、ウクライナがロシアに脅威を与える程の自由民主主義国家とは思えない。これはマクフォール氏の仮説の妥当性に、重大な疑問を投げかけている。

そもそもヨーロッパでの戦争の多くは、予防戦争であった。このことは、軍事史・戦略論の大家マイケル・ハワード氏が、「政治家が敵対国の力の増大を認識して、その国に自国が縛られてしまうことへの恐怖心は、ほとんどの戦争の原因なのである」と喝破した通りである。ロシア・ウクライナ戦争も、この例外ではないだろう。

なお、これはプーチンを擁護するとか、誰に戦争の責任があるとか、誰が悪いとかではなく、価値中立的な観点から、「何がロシアの侵略を引き起こしたのか」に関する諸仮説をエビデンスにより検証する作業である。このことは重ねて強調しておきたい。