ウクライナ報道における「訳語」の問題

沖野 大輔

ロシアがウクライナへの本格的な軍事侵攻を開始して2カ月が経過する。ウクライナ東部ではロシア軍が激しい砲撃を続けているが、ウクライナ側も頑強に抵抗しており長期化は避けられそうもない。これに関連する報道で、いくつか気になった言葉がある。

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ひとつは「東方拡大」である。冷戦終結後、東欧の旧ソ連衛星国が次々とNATOに加盟し、ソ連が崩壊した1991年に16か国だった加盟国は30か国にまで増えた。この動きが一般に「東方拡大」と呼ばれている。最近の例では米外交問題評議会(CFR)が発行する国際政治経済ジャーナル「Foreign Affairs」のサイトが“Was NATO Enlargement a Mistake?”と題する記事を掲載している。このenlargementを、我が国ではそのまま「拡大」と訳しているのであろう。

しかし、NATOの東方「拡大」は結果であり、実際には「東欧諸国のロシア離反/NATO加盟」である。ソ連の抑圧から解放された東欧諸国がNATO加盟を望んだのは、ソ連崩壊後も依然として強大な軍事力を有するロシアを恐れ、西欧のような自由主義を求めたことによる。即ちNATOが東方に拡大したと言うよりも、東方の諸国家がロシアに離反してNATO入りしたのが実態である。

このような現実から見れば、enlargementをそのまま「拡大」と訳すのはいささかミスリードの嫌いがあろう。「拡大」にはNATOが一方的にロシアに迫っていくような印象があり、「西側諸国の軍事同盟であるNATOが自分たちを敵とみなしてきた」というプーチンの言い分に理解を示すロシア擁護者たちに一定の説得力を与えてきたのではないだろうか。「NATOの東方拡大」ではなく、単に「東欧諸国のNATO加盟」とすれば、ロシアが離反していく諸国家の引き止めに失敗していることや、東欧諸国が自らの意志でNATO加盟を望んだ事実を表現できるものと考える。

二つ目は「集団墓地」である。

AP通信のサイトが“Mariupol officials: Second mass grave found”とする記事を掲載している。mass graveを訳したのが「集団墓地」である。この記事ではThe discovery of mass graves has led to accusations that the Russians are trying to conceal the slaughter of civilians in the city.(集団墓地の発見は、ロシアが市内の民間人の虐殺を隠そうとしているという告発につながった)と伝えており、ここでいうmass graveは「虐殺隠蔽のために遺体を埋める場所」である。今回のウクライナ侵略に限らず、例えばボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で多数の遺体が埋められた場所も、我が国では「集団墓地」と表現されてきた。

これを「墓地」と訳すのはいかがなものか。実態としては、我が国の刑法でいうところの「死体遺棄の現場」である。刑法上の遺棄とは「風俗上の埋葬と認められない方法で死体を遺棄すること」であり、「死体を共同墓地に埋めたとしても、それが風俗上の埋葬といえない限り遺棄」である(大谷實『刑法講義各論 第四版補訂版』)。もちろん、我が国刑法がロシア軍に適用されるわけではないが、「埋葬」と「遺棄」との違いを検討するための物差しにはなる。

風俗上の埋葬というためには、遺体に敬意を払いその尊厳を確保する方法で行なわれるべきであるから、虐殺者が重機で掘った巨大な溝に多くの遺体を埋めるような場合は埋葬とは言えず、その場所を墓地と呼ぶべきでもない。かといって単に「遺棄」というだけでは、遺体をそのまま放置する場合との区別がつきにくい。一方、放置された遺体を市民が(衛生上からも)仮に埋めるような場合は埋葬と言っても違和感がない。これは船員法第15条に基づいて船長が行なう水葬に類するものと考えて良いだろう。

それでは虐殺遺体の「埋葬」や「集団墓地」をどのように言い換えればよいだろう。我が国の法律に基づいて殺処分された家畜の死体は「焼却し、又は埋却しなければならない」とされている(家畜伝染病予防法第21条)。この用語に従うなら「埋却」「埋却場」と呼ぶのが適切かもしれない。

侵略者・虐殺者によって「埋却」された遺体は、彼らの故郷に平和が戻ったあと、その尊厳にふさわしい方法で「墓地」に「埋葬」されるべきだ。その時が一刻も早く訪れるよう、祈るばかりである。

沖野 大輔
会社員、博士(政治学)。1965年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒。一般企業勤務の傍ら50代で大学院に進学し、放送大学大学院で修士(学術)、国士舘大学大学院で博士(政治学)。政治と宗教との関係に関心を持つ。