国民が戦う理由:共同体としての国家

ロシアによるウクライナ侵略を経験した我々には「国民は戦うべきか」との問いが突き付けられている。単に「戦うべきか」と問われても答えに窮することもあろう。その戦いに正義があるのか、自国に直接被害が出ているのか、地域紛争なのか全面戦争なのか、自衛的なのか侵略的なのか等々、納得できる理由が必要である。

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今般のウクライナ側の戦いは国際法上の自衛権行使であるが故に多くの人々から支持されている。仮に米国やNATOの政策に問題があったとしても、主権国家に対する侵略を肯定できるものではない。

しかし、橋下徹氏は「悪いのはロシアだが」と断りつつも「国民は脱出して数十年の再起を目指せ」「まず国民を避難させよ」と主張し「戦う一択のウクライナ政府」を激しく非難した。れいわ新選組は、ロシアを非難する3月1日の国会決議に反対した上で、「ロシアとウクライナどちらの側にも立たず、あくまで中立」を主張した。

国会で行われたゼレンスキー大統領の演説に山東昭子参議院議長が「祖国のために戦っている姿を拝見し、その勇気に感動している」とコメントすると、古市憲寿氏が「スポーツを見ているような言葉で応答した」「台無しにした」と批判した。

4月10日のNHKニュースでは来日したウクライナ女性の発言に「今は大変だけど平和になるように祈っている」という字幕が添えられたが、実際には「私たちの勝利を願います。ウクライナに栄光あれ」と語っていたと報じられた。

政界やマスメディアで活躍する人々の中には自衛権行使に批判的・懐疑的ないし冷笑的に見る、あるいはウクライナの戦いを正面から肯定することに躊躇する向きがあるようだ。

我が国では「とにかく戦争はいけない」式の「反戦」「平和」が唱えられてきたように思う。武力行使に及んだのはロシアであるにも関わらず、れいわ新選組が「あくまで中立」を求め、ウクライナの勝利を願う言葉をNHKが改変した背景も、そこにあるのかもしれない。

自分や家族、あるいは見ず知らずの者が襲われた時でも正当防衛を否定する者はほとんどいないだろう。それにも関わらず「国が危機に瀕しているとき」となると、自ら防衛に立ち上がること、またその意志を示すことを躊躇するのはなぜか。国家に対する見方に原因があるのではないだろうか。

国家による人権侵害はいつの時代にもある。しかし人々の生命財産にとって最大の脅威の一つである戦争にあって、国家以外に人権を保護できる主体は存在しない。現にロシアの攻撃から人々を保護しているのはウクライナ国家(とそれを支援する諸国家)である。「反戦」「平和」運動家は「戦争は自衛の名で始まる」という。確かにウクライナを侵略しているロシアも自衛を騙っている。しかし、それは侵略された側である国家の自衛権行使を否定し、相対化するものであってはならない。

「民族」と「国民」について、次のように定義する説がある。

民族は、共通の文化伝統・共通言語・生活様式・儀式慣習を持つ。民族は、主観的アイデンティティー及び客観的属性によって弁別される。これに対して、「国民」とは政治的共同存在である。……国民は、国籍によってのみ弁別される。このように規定される国民は、民族と峻別しなければならない。……国民が共有する文化的歴史的実体は存在しない。国民とは、むしろ機能的・形式的な存在である。(瀧川裕英教授)

このように解するなら、国民とは単なる国籍保持者であり、国民が国家を守る意味は見出しにくくなる。国民は国家との紐帯を失い、自国の防衛でさえ「戦争に駆り出される」「『お国のため』の強制」として厭うことにつながるだろう。

しかし、国家を「単に法的組織にとどまらない、文化的多様性をもった歴史的存在としての倫理的・精神的有機体」「権力機構としての国家は厳密には政府であり、共通の文化、伝統を持った国民共同体としての国家こそ本質」(百地章教授)と見るならば、国民が国家に愛着を抱き、侵略に対して自衛の意志を持つのは当然ということになるだろう。

海洋によって他国から隔てられ国境が変動しにくかった我が国ではこうした考え方はわかりやすく、同じ島国である英国流の保守思想とも一脈通ずるものがあろう。多くの民族が「自分たちの国家建設」を目指してきた歴史的事実とも符合する。

「降伏し、再起を図れ」との主張にも一定の合理性はあり得る。自衛力を持たず、外部からの支援も期待できない場合には、ほかに選択肢がないからだ。しかし、侵略者が文化や歴史を破壊して居座った場合、国民共同体は滅びるがままとなる。それを阻止するためには小国といえども可能な限り抵抗することになるだろう。

ことに侵略戦争を否定する思想が一般化した現代においては、国際社会による強力な支援が期待できる。「反戦」「平和」の名のもとにこれを放置していれば、国家が国家を武力で制圧することが事実上認められてしまい、却って「反戦」「平和」に逆行するからである。

侵略に直面したときに、国民は戦うべきか。武器をとることだけが戦いではない。国民共同体への侵略を毅然と否定すること。勝利を願い国民共同体に「栄光あれ」と祈ること。こうした前提があってはじめて、国民の団結、国際社会の団結につながる。これもウクライナの人々の戦いであり、我々を含めた国際社会の戦いと言うべきであろう。