突然、「選挙ギャルズ」なるアカウントが始まり、いかにもなギャル風の言葉使いによって、女性の若い世代の中に今の政治に対する問題意識が起きているかのような喧伝が始まった。
多くの人は、実際のギャル達が使う言葉使いで演出されたものと見抜き、しかもそれが特定野党が企画したものだろうと予測した。この「選挙ギャルズ」アカウントが共産党や社民党関係者とその支持者らによって拡散されていることで、少し「痛さ」すら感じさせるやり方に、もう社民党や共産党は末期状態に突入していると考えられたのも、宜なるかなと思わないでもない。
8月13日に最初のパレードが企画されたが、台風接近により開催が延期され、8月20日、改めてパレードが企画、開催されたことで、初めて「選挙ギャルズ」の実態が白日の下に晒されたわけだが、その中身は、「選挙ギャルズ」は我々聴衆の予測を遥かに凌駕する凋落ぶりを示していた。
大方の予想通り、社民党と日本共産党が企画した「ラブピパレード」なるデモ行進は、ギャルなどとは程遠い年代の女性が100名ほど集まっただけで、その「痛さ」加減には落胆すら感じさせるものとなった。
「選挙ギャルズ」のパレードに使用されていた街宣車が、共産党の吉良よしこ議員の選挙カーと同じ車体が使用されていたなどと言うのは、私には興味がない。
注目すべきは、社民党と日本共産党のあまりに時代錯誤感ではないだろうか?
「選挙ギャルズ」アカウントがギャル風味の言葉を使って、いかにもな発信をすることが、何かの新たなムーブメントに繋がると考えたことは、社民党や日本共産党には然るべく頭脳が存在していないことを意味する。
「選挙ギャルズ」サイトでは8月20日のパレードの案内と共に、下記のような「持ち物」と称する中身が記載されていた。そもそもギャルがグラサンをしているのか?ピンク色の持ち物がかっこいいと思っているのか?と言う素朴な疑問以外に、「選挙ギャルズ」サイトに出ているギャルたちのアバターが、20年以上前のギャル感に満たされていると言うことが問題なのだ。
「飲みもの(熱中症きをつけよぉ~!)
適宜グラサン、ピンク色の何か、アゲな気持ちぃ
あとは好きなもの着てきて💖」
40代、50代のおよそギャルとは無縁だったような人々が、自分たちが見たことがあった記憶の中にあるギャルになりすまそうと、それは幻想以外の何者でもなく、今のギャルを勉強しようと原宿や渋谷に出かけたとて、オバサンたちは自分たちの常識では理解の及ばない今の若い世代の女の子を見て、めまいを起こすくらいしか出来ることはない。
これは何も「選挙ギャルズ」をでっち上げた社民党や日本共産党に限ったことではなく、オバマ以前のアメリカと同じで、今の日本の野党はイデオロギーや思想を最初にぶち上げ、それに沿って社会の構造、変化を作り上げようとする戦略をとっており、このやり方そのものが既に時代に大きく遅れをとっている。
今回の参院選で、共産主義者である山本太郎氏のれいわ新選組から出馬し当選した水道橋博士氏も、彼の主張の大部分は現大阪市長の日本維新の会松井代表からスラップ訴訟を起こされたことの怨讐からであり、反スラップ訴訟法なるものを作ると息巻いており、その意図するところは、「権力を持たない個人の発言を封じるような訴訟を起こさせない法律の制定を目指す」と自らが権力者「側」に立つという大いなる矛盾を見せている。
過去、反安倍のデモに参加したほっしゃんを擁護する立場で、国民がデモを起こすことの正当性、その民主主義的背景についてAbema TVに出て持論を語っていた水道橋博士氏の姿勢と比べると、少しの違和感を感じさせるものでもあった。
【ひろゆき】デモで社会は変わるのか?水道橋博士と激論|#アベプラ《アベマTVで放送中》
この中で水道橋博士は、でも行動自体は民意を表す意味で必要であり、過去、アメリカの公民権運動のように社会そのものを変えていったものもあると主張し、デモ行為自体の正当性を主張している。
この点、私も一定の意味があるとは思うが、今回、個人の怨嗟を発端とした反スラップ法制定を目指すために国会議員になることを決意した水道橋博士氏の主張と彼の言う「民主主義」や民意とは何なのか?と、問い直しなくなる。
また、Abema TVに出演したほっしゃん氏は、
「満開の民主主義」
「民意の既視化(可視化?)」
と表現し、安倍政権批判を繰り返す同氏が、その意志の表現としてデモに参加したことを告白している。
その民意の具現化としてのデモ行為、それが民主主義であると表現し、ほっしゃん氏を援護した水道橋博士氏は、
「デモでなんか変わるんスか?」
とひろゆき氏に一刀両断されていることの意味が理解できていなかったのかもしれない。
つまり、デモ行為と民主主義とは何か?の言葉の意味が理解できているのだろうか? 仮に民主主義の本質を語るとするなら、権力者側に立とうとした水道橋博士の姿勢は、矛盾していると言えないだろうか?
同様に、時代錯誤感満載の「選挙ギャルズ」なる若者への擦り寄りが見事に滑りまくった社民党や日本共産党のあり方と、一体、何が違うのだろうか?
つまり、国会議員を目指し、向こう6年間、年間3,500万円、自由に使えるお金を税金から支出され、とりあえず6年間の生活の補償を受けることが出来た権力者側に立った水道橋博士は、権力者の反対側の立場での民主主義を語れなくなってしまう。
「選挙ギャルズ」も同じで権力側に立って、民意を喚起する、革命を扇動する意味での「選挙ギャルズ」という民意の表象を権力者側が行なっているという皮肉というか矛盾だ。
これは、オバマ以前のイデオロギーによる社会の分断と対立を、権力者側である国会議員が行うという、自己矛盾に陥っているのだ。
私はデモ行為を否定するものでも、ある目的を以って国会議員を目指すことも、一切、否定するものでもない。
「選挙ギャルズ」のラブピパレードも、およそギャルとは呼べない世代の高齢者を1万人くらい集めて、ピンク色の服に全員が包まれていれば、それはそれで大いなる社会風刺になっただろうし、ギャグとしてもっと話題になっただろう。ところが実際には、ギャルの集まりなどと私たちの出番ではないと、多くの教職員OB、OGは思ったのだろうし、公務員OB、OGは社会的には常識人が多いので、テレビカメラに自分たちの姿が映ることを恐れたのだろう。それが8月20日の100名のパレード結果だ。その背景は、政治家が主導した政治運動だったからだ。
同様に水道橋博士も、個人の怨嗟による国会議員立候補を隠さないで立候補されたのは、間違っていなかったと思うが、では、彼の過去の民主主義に対する発言との矛盾はどう説明なさるのだろう?むしろ落選していれば、大いなるギャグとして芸人人生の1ページを飾ることに矛盾はなかっただろうが、間違って当選し権力者側に立ってしまったことで、博士は今後、自由な発言を制限されることになる。その矛盾に対して、博士自身がどう説明するのか?私は、そっちの方が気になる。
つまり、「選挙ギャルズ」にしても水道橋博士にしても、新しい時代や社会の変革を見せてくれるかと思っていたが、実態は「過去」のものでしかなかった。
それは、私には少し残念でもある。
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倉沢 良弦
大学卒業後、20年間のNPO法人勤務を経て独立。個人事業主と会社経営を並行しながら、工業製品の営業、商品開発、企業間マッチング事業を行なってきた。昨年、自身が手がける事業を現在の会社に統合。個人サイトのコラムやブログは企業経営とは別のペンネームで活動中。