9月上旬、新国立劇場で4回行われた二期会『蝶々夫人』の初日を鑑賞した。二期会の公演を新国で観るのは、上野の東京文化会館が改装中だった2013年の『ホフマン物語』以来。2022年の蝶々さんは東京二期会・新国立劇場・日本オペラ振興会(藤原歌劇団)の三団体共催公演で、合唱も三団体からの歌手が乗った。指揮はアンドレア・バッティストーニ、東京フィル。
二期会の蝶々さんは2019年に宮本亞門演出が上演され、それ以前の栗山昌良演出の装置はなくなってしまったと思っていたが、きちんと保存されており、和風屏風と枝垂れ桜のセットを久々に観た。バッティストーニは亞門版も振っているが、演出の新しさに注目せずにはいられなかった前回より全体がオーソドックスな分、音楽作りの丁寧さが際立って聞こえた。バッティストーニが新国のピットで振るのは初めてのことだと思う。
『蝶々夫人』は外側から聴くか、内側から聴くかで話が違ってくる。日本に対する由々しい誤解と偏見、浅薄なエキゾティシズム、あるいは男尊女卑という批判は、プッチーニの「中に入れば」全く聞こえないノイズになる。たくさんのマエストロが新国や東京文化のピットでプッチーニの愛を聴かせてくれた。三幕の美しいトリオが貴重なものだと教えてくれたのは、女性の指揮者ケリー・リン・ウィルソンで、あのトリオの美しさに気づいたとき、今までまるきり蝶々さんを「聴いていなかった」自分にはっとさせられた。「よくある話で、男が女に惚れて、男友達が『やめろよ、彼女は本気だぞ』と諭す…」と語ってくれたドナート・レンツェッティは私にとっての恩人で、「プッチーニは泣きながらこのオペラを書いたに違いない」というマエストロの言葉を何度も思い出す。
バッティストーニは巨大な愛の指揮者で、プッチーニが日本の小さくて美しいものを描写するために描いた音を慈しむように鳴らし、蝶々さんが登場する前のピンカートンとシャープレスのやり取りから情感に溢れていた。まだ舞台に現れていない蝶々さんは本当に愛らしい、妖精のような声をしている…それをピンカートンは胸を高鳴らせて歌うのだが、「amore o grillo…」から蝶々さん登場までのピンカートンとシャープレスのやり取りは示唆に富み、ピンカートンが老いぼれ扱いするシャープレスは、すでに悲劇を予感させる旋律を歌う。「星条旗よ永遠なれ」と「君が代」を足して割ったら出てくるようなメロディで、プッチーニの天才性が思わず書いてしまった「双方の気持ちを汲んだ」節だ。
ピンカートン宮里直樹さんは輝かしく完璧な歌唱で、シャープレス今井俊輔さんとの声量のバランスも良かった。今井さんのシャープレスは思慮深く、三幕では神々しささえ感じられたが、オペラのバリトンの役の中でこれほどいい役はないのではないか。ピンカートンの軽率さをたしなめる音楽さえ美しく、すべての人々に対して愛情深い。『蝶々夫人』は内側から見ようとすれば、たくさんの愛に溢れている。スズキの蝶々さんを思いやる愛、シャープレスの人間愛、息子はただそこにいるだけで愛の象徴で、子役が今回も素晴らしい存在感だった。
不幸を呼び起こすのは、ピンカートンと蝶々さんの間の一番強い愛で、この愛が雷に打たれた塔のように真っ二つになるのを、穏やかな人々は見ていられない。主役の二人の愛だけが、悪い愛で、熾烈なエロティシズムが渦巻いている。一幕の愛の二重唱は強烈な愛の陶酔感で、コロナ演出もあって歌手たちはある程度の距離をとっているが、オペラに書かれた性愛のデュエットだと思う。悪魔の前で、裸の男女が鎖でつながれている「悪魔」のタロットカードを思い出した。ピンカートンだけが悪者ではなく、蝶々さんも「悪い娘」なのであり、それに激怒するのがボンゾで、「慎ましく穏やかな」神のもとで暮らしている日本の宗教を捨て、勝手に改宗する蝶々さんは、異端者でありあばずれ娘なのだ。
トスカは信心深く、ミミはお祈りを欠かさないように、プッチーニのヒロインはつねに十字架を手放さない。蝶々さんまでもが十字架を握りしめるのだから、プッチーニの好みのタイプには一貫性がある。蝶々さんは、恋愛のために日本の神仏を捨てたのだから、孤立して当然で、それに怒りを表すボンゾは「エキセントリックな坊主」であるはずがない。バッティストーニはボンゾ登場のときに、多くの指揮者が大きな音で驚かせるところを、遠くから神が雲に乗ってやってくるような表現にした。バッティストーニが見せた日本の宗教や文化に対しての敬愛の念だ。ボンゾ斉木健詞さんの歌唱も、宗教的な「長」の厳かさがあった。
蝶々さんの大村博美さんはすべてが自然で、「15歳から18歳までの役を演じる」という作られた若さを見せるのではなく、内側からの愛の歌を聴かせてくれた。愛の炎が点火した段階で、15歳であってもひとりの女なのだ。愛の二重唱は対等な男と女の歌で、男だけが支配的になって女をものにしようとしているのではなく、エロティックな炎に包まれた罪深い二人のデュエットなのだ。蝶々さんが大尽のヤマドリを拒絶してピンカートンを待つのは、彼とまた愛し合いたいからで、心身ともにヤマドリが入り込む隙はない。
「ある晴れた日に」は、女の官能の記憶が蘇る、ただひとりの男を求める歌で、立派なハイライトなんかじゃない、その瞬間の溢れ出るものを表した大村さんは素晴らしかった。
スズキ山下牧子さんは献身的で、花の二重唱も見事だった。「可哀そうな蝶々さん…」をオウム返しに歌い、蝶々さんが眠りについた後、シャープレスとピンカートンとケイトがやってくる場面は毎回凄いと思う。あの場面で、悲劇を最初に受け入れるスズキの存在が何度見ても素晴らしいのだ。
東フィルのプッチーニは世界で一番なのではないかと思う。海外のオペラハウスの引っ越し公演などでわざわざ上演される演目ではないから、他と比べる機会もないのだが、東フィルは一番多く蝶々さんを上演しているし、イタリアの指揮者が驚くような「イタリアの音」も持っている。コンマスの依田さんが鳴らすソロのフレーズは、どこか20世紀初頭の録音のようなノスタルジーを感じさせ、甘く切ない気分にさせられた。オペラのことが少しずつ分かりかけてきた自分にとって、バッティストーニから学ぶことはあまりに多く、こうした「受難の」名作に関して、いかに内側の真実を引き出せるかが重要なのだと思った。どんな奇抜な設定であれ、自分がどのように愛を感じているかという内面の対話なしには、オペラは振ることができない。マエストロの大きな愛に呆然としてしまった。
編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2022年9月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。