底辺には底辺の生き方がある

黒坂岳央です。

先日、ある男性から連絡を受けた。「実は今、仕事で熊本に来ている。久しぶりに会って話がしたい」と言われ、近所のレストランでランチをした。その時に相手から言われた発言が記事タイトルの「底辺には底辺の生き方がある」である。

現在の自分の頭の中をどうひっくり返しても出てこない発想だったため、妙に新鮮さを感じたこの発言を分析したい。

男との出会い

自分とその男性は今から10年くらい前に東京で出会った。人生に行き詰まり、なんとかして突破口を開きたいという彼に対して、できる限りのアドバイスをした。とはいっても、10年前の自分にできるアドバイスなど大したことはない。

しかし、その当時自分が知っている限りの知識で、人生を好転させるために必要なことを精一杯伝えたつもりだった。その時、彼は喜んで帰っていった。枯れきった植物に水を注いだような顔に変わり、別れた。

自分は東京から熊本へ移住した。連絡先は伝えており、やり取りを経て10年ぶりの再会となった。あれから彼にどう変化があったかを知りたくなり、再会を決めた。

もう人生を諦めた

彼いわく、あれから人生を高めることはできず年齢だけを重ね、立場も非正規で夢も希望もないということだった。

誰かに救いを求めているのかもしれない。閉塞的な人生の風穴を明けたくて自分と会いたいと言ってくれたのかもしれない。そう思ったから、自分は彼を救いたいと思った。そして自分自身はあれからそれなりにビジネスの知識も情報も蓄えることができたので、東京で会った時のような精神論だけではなく、具体的なアクションを含めたアドバイスをした。正直、喜んでもらえると思っていた。

具体的に何をどの順番で取り組めば、今より人生を好転させられ、生活基盤を立て直せるかを明確に伝えた。後は行動するだけ。しかし、彼の口から出てきたのは予想に反したものであった。

「自分はもう若くない。それは10年前に知りたかった」

「そんなことはあなたのようなに能力が高い人にしかできない」

「今は忙しくてそんな余裕がない」

こういったネガティブな言葉のオンパレードだった。「そういいたくなる気持ちも分からなくもないけど」と共感を示しつつ、感情的、過去の経験だけで判断せず、論理的に実現可能性を追求していこうと提案をした。

彼の言うできない理由を自分が論理的に1つずつひっくり返すことで、強固な自己認識を変えられるのでは?と思った。食い下がる自分に対し、彼は最後にこういった。「でも底辺もそれなりに楽しいんだよ」と。それを聞き、自分は彼を救うことを完全に諦めた。

baona/iStock

救われる気がない人を救うことはできない

自分が好きな言葉に「天は自ら助くる者を助く」というものがある。筆者は「自ら救われる気力がない人を他人が救うことはできない」と解釈している。彼は最初から救われる気がまったくないように思えた。どれだけ論理的、実現可能性を示しても差し伸べた手を取ることはしない。

希望を失った人間に再び希望を与えることは簡単なことではない。自分自身、育ちは決して裕福ではなくむしろ人生の前半は苦戦した記憶しかない。だが、いつだって希望を失うことはしなかった。

昔、立ちはだかった壁は一つずつゆっくり乗り越えていったという感覚がある。困難は人生を不幸にするのではなく、成長を促してくれるチャンスでもある。困難を乗り越えた後はいつも大きな成長を感じてきた。それが人生の不確実性を乗り越える強さに必要だと信じて生きてきたし、後から振り返ると思い出は美化され「大変だったけど楽しかった。あの時に頑張ってよかった」と考えてきた。

だが人は完全に希望を失ってしまうと、もはや壁を乗り越えようと思わなくなってしまうのだ。完全に枯れ果てた木に水をやってももう二度と芽は出ない。自分自身で救われようと思わなければ、誰にも救うことはできない。

いつだって希望を持ち続けることの重要性を、彼との対話で学ぶことができた。そういう意味では良い経験だったと言えるのかもしれない。いや、半ば強引にそう思い込もうとする自分に気づく。そう考えなければやるせない気持ちに染め抜かれる、そんな出来事だった。

 

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ビジネスジャーナリスト
シカゴの大学へ留学し会計学を学ぶ。大学卒業後、ブルームバーグLP、セブン&アイ、コカ・コーラボトラーズジャパン勤務を経て独立。フルーツギフトのビジネスに乗り出し、「高級フルーツギフト水菓子 肥後庵」を運営。経営者や医師などエグゼクティブの顧客にも利用されている。本業の傍ら、ビジネスジャーナリストとしても情報発信中。