「LGBTの人々の権利を過剰に認めてはならない」
私がいう「過剰な権利」とは何か。それは、一例を挙げるとすると、「戸籍上は男性で、自覚する性は女性」(もしくはその逆)の人が、女子(男性)更衣室や女性(男性)トイレ等に入る事を認めることだ。
なぜ、そう考えるのか。それらの事を認めていなければ起きなかったであろう犯罪を予防することが大切だと考えているからだ。
前稿に書いたように、アメリカ(バージニア州ラウドン郡)では、性自認が流動的である「ジェンダーフルイド」とされる高校生による校内女子トイレでの性的暴行事件が発生(2021年)している。
ラウドン郡はトランスジェンダーの生徒が学校で自認する性別のトイレを使用できるようにしていた。自認する性別のトイレを使用できるようにしていた事が、犯罪の発生要因を一つ作ったと言えよう。
こうした出来事を避けるには「性的少数者の人(またはそれを装う人)に、学校等で自認する性別のトイレなどを使用させない、その事を認めない」ことが重要であろう。
そう主張すると、「自認する性別のトイレ等を使用できない苦痛をどうしてくれるのだ!」と反論する方もいるだろう。しかし、そう反論する人には「戸籍上は男性で、自覚する性は女性」の人が、女性トイレ等に入ってくる事により生じる女性側の不安や恐怖に想いを寄せて欲しいと言いたい(「戸籍上は男性で、自覚する性は女性」の例ばかり挙げているが、その逆もある)。
自らの願望を、他人の不安や恐怖をよそに叶えたいというのは、LGBTの人かそうでないかを問わず、「我儘」というべきだろう。「戸籍上は男性で、自覚する性は女性」の人も、されたら嫌なことはあるだろう。
「戸籍上は男性で、自覚する性は女性」の人(ここでは女性としてみる)が、銭湯で女湯に入っていたとしよう。そこに突然、全裸の一般男性が入って来たら、どうだろうか?
一般の女性ならば、または女性の心を持っているならば、恐怖や不快感を覚えるのではないか。それは、「戸籍上は男性で、自覚する性は女性」の人も同様ではないか。「戸籍上は男性で、自覚する性は女性」の人も、全裸の一般男性が女湯に入ってきたら、嫌であろう(嫌ではないという人もなかにはいるかもしれないが)。
自分がされたら嫌な事や恐怖を感じることは、他人にもしない。この当たり前のことがLGBTの問題を考える上でも重要ではないかと思うのだ。
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