6月22日に発売になるFFの7年ぶりのナンバリングタイトル、「ファイナルファンタジー16」の『体験版』が、発売2週間前から公開されてるんですけど、めっっっちゃ国内外の評価が高いらしい。
Twitterみてて凄い国内の評判が高いのを知ったんですが、それで海外評価の感じも知りたいな…と思ってYouTube検索したら、なんかこんなに「発売前なのに大絶賛の嵐」みたいな事ってある?みたいな感じで驚きました。
- 「ゲームの体験版」として人生で一番印象的だった
- 最初の二時間については過去の人類史上最高のゲームと言っても過言ではない
- 正直FFなんて終わったシリーズだと思ってたけど、体験版プレイ後即注文してしまった
- J-RPGのダメなところを全部排除して一番美味しい部分だけ現代風に蘇らせた傑作になることが2時間プレイしただけでわかる
- 2時間のストーリーで既に泣いた・・・
- PS5買って良かった!ってはじめてマジに思った!
…みたいなレビュー動画が世界中でアップされています。
PS5というゲーム機の独占タイトルなのにそのゲーム機自体がまだまだ売出し中(PS4は一億台以上売れてるがPS5はまだ3000万台程度。それだけでなくゲームの中心がPCに移ってきている時代にPS5限定はハンデが大きい)ということで、この発売前の興奮がイコール発売後の売上に繋がるかどうかは未知数な事は否定できません。
ただ、「何かが起きてる!」的な興奮は確実に伝わってきました。
あまりに高い評価の動画が多い&コメント欄も絶賛みたいな感じなんで、体験版公開直後は結構「もともと日本文化大好き」って感じの配信者が多かったんですが、だんだん「ファイナルファンタジーとか興味なかったけどなんか評価高いからやってみた…系の動画」も増えてきた感じがあります。
この「熱さの伝播」が適切に繋がっていけば、例えば「スラムダンクの映画の大ヒット」みたいな感じで、今後実際体験した人の熱い口コミで、結構大きな流れになるんじゃないかという予感がします。
(ちなみにFF16については、「メインキャラクターに黒人がいない問題」でいわゆる「ポリコレ」勢力から叩かれていたんですが、それについてもこの記事では考察したいと思っています。)
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今回記事では、過去10年グローバルに見るとかなりダメっぽい印象が続いていた日本の古典的ゲームシリーズが、だんだん歯車が噛み合って復活してきつつある流れについて、その理由を考えてみたいと思っています。
例えばFFって13とか15とか、ここ10年のナンバリングタイトルは、「まあまあ売れてるっちゃ売れてるが評価は微妙」みたいなところが、国内でも国外でもあったと思うんですよね。
オンラインゲームになってる14も、今回のFF16も担当している有名な吉田プロデューサーが剛腕で立て直して復活したんですが、それ以前は本当に酷い大爆死状態だったという話を聞きます。
ちょっと似た話として、最近発売されたカプコンの『ストリートファイター6』も結構評判いいらしいんですよ。
僕は20年以上前のゲーセンでスト2をやってた以来全然触れてないので伝聞しかないですが、これも結構過去10年色々と問題が起きていたところ、『スト6』はゲームバランスがちゃんと丁寧に作られていて世界的に評価が高いらしい。公式サイトのバナーによると、6月2日発売なのに既に全世界売上で百万本突破しているとか。
あと、「モンスターハンター」シリーズも、昔は「こんなゲーム人気あるの日本だけ」みたいな状態だったらしいですが、2018年に出た「モンスターハンターワールド」以後世界人気が爆発して、過去シリーズとは”文字通りに一桁違う”売上本数になっているらしい。
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なんか、過去10年のFFも、ストリートファイターシリーズも、一応根強いファンはいたわけですよね。好きな人は今でも「いやあれ名作だから!」って言ってる人も結構いる。
ただ、ある意味で90年代〜00年代初頭の日本ゲーム黄金時代のブランドの遺産で食っていたみたいな側面は明らかにあって(笑)、発売延期が重なったり、あまりに説明不足で難解であったり、しょうもないバグが大量に残っていたり、いわゆる「モノ売るってレベルじゃねーぞ」的な混乱が重なっていて、「ああ、もう日本ゲームの栄光は失われていくんだね」という感じではあった。(モンハンは比較的新しいシリーズなので事情は違いますが、国内人気に比べて海外で全然理解されてなかったのは似ています)
そういう古参タイトルが、急激に「グローバルに歯車が噛み合ってきた」感じになってるのは何なのか?みたいな事を考えてみたいんですよ。
なぜかこの考察が大事かといえば、ローカルな「独自路線の強み」と「グローバルな流行」とのすり合わせ・・・って、あらゆるビジネス領域において日本企業にとって大問題のテーマだからです。
その部分において、過去10年はお世辞にもうまく行ってなかったが、今は妙に歯車が噛み合いはじめている…という部分にある原因を考察してみたい。
それは名付けてみれば、『情報通な引きこもり』戦略みたいなものがあるんじゃないかと私は考えています。
1. 国内にいながらにして海外の評価を物凄く「リアルに」感じられる時代
今回、TwitterでFF16の体験版がマジで良かったよ…って言ってる国内の評判を見て、海外ではどうかな?と思って何気なく検索したんですけど、「こんなにリアルに評判がすぐ伝わってくるんだ」という状況に衝撃を受けました。
またYouTubeさんが気を利かせて、一個見たら次々オススメしてくれるんで(笑)、結果としてこの一週間色んな国、色んな人種のリアクション動画(ただし英語圏だけですが)を見ることになりました。
特に以下の二つなんかは面白かったので、飛ばし飛ばしですけど2時間のプレイ動画配信を全部見てしまった。(結構上の世代の配信者は10分ぐらいの感想だけシェアする人が多いんですが、若いZ世代はだいたい2時間のプレイをまるごと配信してる人が多くて文化の違いを感じます)
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↓無意味に「かめはめ波!」とか叫んだりするドラゴンボール好きのアメリカ黒人配信者のOmegaProさん。
でも評価は結構”辛辣だけど的確”という感じで、
「ここまでの部分、JRPGでよくある陳腐な長いモノローグみたいなのが全然なくて超いいじゃん。”ゲーム・オブ・スローンズ”的な、6歳児向けじゃなくて大人向けストーリーって感じだね」
…みたいな辛辣な意見を言うかと思ったら、迫力ある召喚獣バトルのシーンで
PS5買って良かった〜!!!って俺今初めて思ってるぅ〜!!!
…とか絶叫したりとか、率直な語り口がいい感じ。ちょっと出てきたラブシーン的な部分で「うぉお・・・これFF7リメイクでティファとクラウドでお願いしたい」とか言うのもウケました。
この人↑はしょっちゅう「それはギガチャドだ!」「これはマジでギガチャド的瞬間だね」みたいなことを言うんですが、なんじゃそりゃ?と思って調べるとすぐ解説してくれてる動画が見つかるのが今の時代の凄いところだなと思います。
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もう一個、いかにも”kawaiiカルチャー”好きのアニメオタク女子…って感じのアメリカ人女性配信者のSnaxanさん↓
この人は凄い人間関係の洞察が鋭くて、
- あ、この母親、主人公のこと嫌いなのね。なぜかしら?ああ・・・なるほど、才能次第で子供を愛せない母親っているもんね・・・
- うわー、このビッチ、絶対あとで裏切るんじゃない?そうなっても驚かないわ。(→図星だった)
- あ・・・この兵士、絶対”トロイの木馬”的攻撃狙ってない?(→図星だった)
…みたいな感じだし、配信中も視聴者がおいてけぼりにならないように操作感とか、設定とかについて常に客観的に第三者目線で理解できる解説する感じが頭良いんだなあ…っていう印象でした。
「trojan horse attack(トロイの木馬攻撃)」とか「jeopardizing(〜を危険に晒す原因になる)」とか、知らなかったインテリっぽい言葉がたくさん出てきて勉強になりました。
あと、例えば主人公のキャラクターが幼馴染の女の子の肩を抱き…かけて結局手を伸ばしただけで終わったところ(男性配信者はほぼ気づかない 笑)をめざとく見つけて爆笑してるのとか、笑いのツボが「健全なタイプの恋バナ女子会」みたいで凄い面白かったです。
他にも、「FF16 demo review」で検索すると次々上がってくる(しかも一個見たら次々サジェストされる)のがあるので、ご興味があればチェックしていただければと思います。
2. 言語の障壁を技術が超え始めて、「情報通な引きこもり」戦略が可能になった
ともあれ、こういうゲームプレイ動画、私は今まで国内のものでもあまり見たことがなかったので、ましてや英語で見てるのに、本当に「友達の家でワイワイ言いながらゲームプレイしてる感じ」なのにはびっくりしたんですよね。
伝わってくる情報の「リッチ」さが10年前とぜんぜん違う。本当に目の前で友達と細かい細かい細部のニュアンスまで含めて「あーそうだよねー」って感じで話してるレベルで情報が伝わってくる。
英語の得意な人も苦手な人もいると思いますが、普通に大学受験の時に英語はまあまあ勉強してたよ…というレベルの読解力があれば、チャレンジしてみると世界が変わると思いました。(上記二つはほんと面白い配信者だと思ってので、試しにトライしてみては?)
私も英語ネイティブ配信者のマシンガントークを全部音だけで聞くのはシンドいレベルでしかないですが、今はYouTubeの字幕AIがあるから、自分が興味がある分野であればかなり理解できる人は多いと思う。
さらに言えば、現時点ですら”自動翻訳”字幕もまあまあ理解できなくもないレベルになってますし、あと数年すればマジでストレスなく言語を超えて多言語配信を理解しあえる世界が来そう。
この「技術の変化」がもたらしてるのは、例えば10年前に国内にいて伝わってきていた「海外の評判」みたいなのとは全然レベルが違うリアリティを持った国際的コミュニケーションのあり方なんですよね。
上記動画を見てると、本当に色んなところの細部で(キャラの容姿が海外のあの芸能人に似てるとか似てないとか、犬とかチョコボのここの動きが超かわいいとか、ワイバーンとかクライヴとかいう名前の印象が英語圏から見てどうかとか、あとFFのシリーズ共通のバトル終了後のファンファーレを皆同じように鼻歌でマネするとか)、「へえ、そういう感想持つんだ」「あ、そうそうそう思うよね俺も思ったわ!」みたいな事がある。
あと小ネタとしては、韓流ドラマ見てる日本人が、韓国語知らないなりに単語だけ真似してみたくなるみたいに、英語配信者が日本語知らないなりに、父親キャラが出てきたら「トオサーン!」って叫ぶとか(笑)、そのレベルで日本語コンテンツがどういう風に受け取られているかが生身でわかる。
これは、別に「海外の反応を収集するぞ!」みたいな事を意識高く思ってる必要すらないんですよね。
たまたま一個見たら勝手にYouTubeのAIがオススメしてくれるんで、寝る前にソファに座ってスマホやタブレットでYouTube開いたら、サジェストされた動画を脳死状態でクリックしてるだけで海外ファンの反応を延々とナマで見られる…というこの「日常と完全に海外が繋がってる感じ」が本当に過去と違うなと思う。
今は「例」としてYouTubeの話をしていますが、それに限らずこういう変化はTwitterからTikTokからその他あらゆるSNSプラットフォームと新しい翻訳関連AI技術が浸透することで、特にここ4−5年の間に全世界で急激に起きた変化としてありますよね。
で、ファイナルファンタジーもストリートファイターもモンスターハンターも、こういう「世界中の反応をめちゃリッチな形で受け取れる時代」になったからこそ、「自分たちのコアの価値を煮詰める」ことと「世界の潮流とフィットさせる」ことを両立できるようになったのではないか?と私は考えています。
要するに、自分たちのコアの価値を守るための「引きこもり要素」と、世界のトレンドに合わせるための「情報通要素」というお互い矛盾した二つの要素を、簡単に同時に満たしやすい環境になってきていると言える。
それが今後の日本の色んな部分で重要になってくる『情報通な引きこもり』戦略というわけです。
ある意味で、技術が人類社会を非常に高密度に結びつけた結果、徐々に「人類一個のムラ社会」的現象が生まれており、そこで「ムラ社会のエキスパート」としての日本文化の価値が見直される流れが生まれているという見方もできる(笑)
(この記事を読まれた方に指摘されたのですが、FFシリーズの”反撃”がオンラインゲームの14から始まっているのは、”自分の庭”で世界中の人を遊ばせてその反応を常に見れる環境自体が、上記のような”情報通な引きこもり”のための好適な環境だったのだと言えるかもしれません。)
3. ”出羽守”を中抜きして「海外の反応」を直接クリエイターが受け取れる時代
要するに、日本と海外の間に高い情報障壁があった時代には、「海外情報を持っているのは特別な人だけ」だったわけですよね。
そういう間接的な情報には「出羽守バイアス」みたいなものが濃厚にあったはずなんですよ。
「そのコンテンツ自体」に特に思い入れがないタイプの人で、たまたま海外のその国にいるから情報を繋いで間接的にインプットを行う役割を担っていたタイプの人は、やはり特有のバイアスを持っている事が多かった。
・単にそのコンテンツへの愛情が薄いから、本当に細かい大事な部分の指摘の精度がぼやけて伝わってしまう
…みたいな事は十分あったはずだし、もっと言えば、
・日本を出て海外ぐらしをしている時点で、”日本的”な何かに対する反感みたいなものを実は持っているタイプであることも多かった
…みたいな、まさに「出羽守バイアス」みたいなものもあった。
結局、「海外からのインプット」が的外れなものになり、それでも自分たちのコア・バリューを守るためにクリエイター側が過剰に意固地になってしまったりもして、それが過去10年のギクシャクした微妙なプロダクトに繋がってた側面はあったはず。
でも、今や、わざわざ自分のアカウントで配信して評判を得ている海外ファンから、国内にいるクリエイターが直接フィードバックを受けられる時代になっている。
最近よく日本の漫画家のTwitterアカウントに英語コメントが殺到して、翻訳機能を利用して直接コミュニケーションしてるのを見ますが、そういう事に必要な語学力のバーは年々凄いスピードで下がってきている。
結果としてどういう変化が起きるか?
30代後半以上の日本人ならドラゴンボールはまあまあ知ってる事が多いと思うけど、今も実は延々と作り続けられてる後日譚について知ってる人ってほとんどいないですよね。え?青い髪の超サイヤ人がいるの?みたいな感じで。(僕もよく知りません)
「海外のドラゴンボールファン」っていうのは「そのレベルの最新作」までちゃんとフォローした上で、海外ファン目線でのインプットをしてくれる人が大量にいるわけですよね。
また、そういう人たちは、「日本社会に馴染めなくて日本を離れた出羽守」よりは「日本的な何か」に対して好意的であることが多く、日本側のコアの価値を守るための必要な色々に対して過剰に批判的であることも少ない。
とはいえ、別にだからといって「べったり」ということでもなくて、さっきのOmegaProさんとか、やっぱJ-RPGのこういうとこちょっとどうかと思うよね・・・みたいなことは率直に言う感じになってはいる。
こういうコミュニケーションが普及することで、
・日本側が自分たちのコアを守るための大事な部分を壊されないように保護しつつ
・今の世界の流行とフィットさせるための適切なインプットのみを自分のペースで取り入れられる
…を両立できる『情報通な引きこもり状態』が自然に生まれる流れが生まれつつあるところがある。
要するに、「リアルな海外ファン」の様子が動画レベルにリッチな情報として大量に流れ込んでくる時代になれば、過剰な「日本スゴイ」も「日本オワタ」もだんだん説得力を失っていく…ということなのかもしれません。
もちろん、文字通りに「国内クリエイター”本人”が直接海外情報を取り入れる」という話だけでなくても、ある程度こういう「伝え聞く」レベルの基礎情報が共有されていれば、国内クリエイターと海外情報伝達者との間が齟齬なくコミュニケーションできるようになる効果は十分あるはずですよね。
4. 「ポリコレ」の新しい取り入れ方もその先にある
実は、FF16は発売前から、主要キャラに黒人がいない事について、色々と「ポリコレ」関連の批判を受けてたんですよね。
それに対して、吉田プロデューサーが「世界観を守る方が大事だ」みたいな事を言って結構炎上してたんですけど…
ただ、今回色んなFF16体験版レビューを動画配信してる人を色々と見てて、黒人の人も結構いましたけど、本気で「怒って」いる人は僕が見た限りいませんでした。
でも「冗談として」は言う…みたいな距離感ではあって、こういうトーンの指摘であれば、もっと新しい「取り入れ方」ができるんじゃないかと思うところもあるんですよね。
というのは、やっぱ「黒人キャラ」を出すと、現状では物凄くステレオタイプ的な「黒人キャラ」になってしまいがちなところがあるじゃないですか。
ファイナルファンタジーシリーズで言えば、FF7のバレットも黒人ですが「いかにも黒人キャラ(一本気なタフガイ系)」ですし、FF13にもアフロヘアの黒人(サッズ・カッツロイ)がいたんですが、あれもなんか別のタイプの「いかにも黒人キャラ(とにかくヒョウキンな陽キャ系)」という感じだった。
特に(日本カルチャー好きの)色んな若いアメリカ黒人のナマの声みたいなのを聞いていると、そういう「いかにも黒人キャラ」みたいな描かれかた自体が自分には負担感がある…っていう人は結構いるなと感じます。
別に人種とか関係なく、白人の外見のキャラやアジア人のキャラでもいいから、「自分個人が内面や存在として気に入ったキャラ」に自分を投影したいのに、「お前は黒人なんだからこの黒人キャラに自分を投影しなさい」みたいなのがかなり余計な「呪い」になっている側面もある。
具体的には例えば黒人男なら変にマッチョになるか過剰にヒョウキンで陽気になるかしかなくて、とにかく白人キャラには許されている「普通な」タイプのキャラクターになりえない的な問題があって、
「いや俺そんなマッチョでもヒョウキンな陽キャでもないんだけど」
…という黒人の居場所が逆になくなってるみたいなところがある。
そういう文脈の中で、日本アニメには「どの人種とも特に考えられていない(あるいは明らかに日本人ってことになってる結果として人種とか意識しない)」キャラクターの中で、人種とか関係なしに「他ならぬ自分個人が自分を投影できるキャラ」を好きになりたい・・・みたいな欲求は結構ありそう。
日本人は別に『進撃の巨人』のリヴァイがアジア人か白人か黒人か…みたいな事を議論しないというか意識すらしてないと思いますが、そういう事を真剣に騒げば騒ぐほど、黒人の人は「明らかに肌が黒いキャラ」以外に自分を投影できないのか?みたいな逆の呪いになってしまう。
リヴァイvs獣の巨人(=猿=ジーク)の動画に世界中のアニメファンが「うおおお!かっけええええ!!」ってなってるときに、別にリヴァイが何人種だろうと自分を投影したければすりゃいいじゃん、というのが本来あるべき姿ではある(勿論また実写版を作るなら大問題になるんでしょうけど)。
もっと言えば「呪術廻戦」のキャラクターは一部を除いて全員日本人(か”呪い”)だけど、別に何人種だろうと好きなキャラクターに自分を投影すりゃいいじゃん、というのが本来あるべきゴールであるはず。
要するに、この「ポリコレ騒動」は、既に「その対象者(例えば黒人とか性的少数者)の普通の人」の問題ではなくなって、ある意味で「延々と”政治的先鋭化のネタ”に使いたい活動家タイプの人のオモチャ」になってしまっている部分も実際にはでてきている。
本来あるべきゴールは、主要キャラの何人かの外見を黒人に変えるのを特に「世界観へのダメージ」なしに普通に行えるようになる事であるはずが、現時点では「黒人を入れる」「性的少数者を入れる」こと自体が、「常に政治的先鋭化を優先したい活動家タイプの人のオモチャにされる」的な文脈が入り込んでしまって余計に難しくなっている問題がある。
そこを丁寧に分離することによって、さっきのOmegaProさんのようなレベルのトーンでのすり合わせが丁寧に行われれば、「じゃあ例えばこのキャラ黒人にしても別に問題なくない?」というような調整はもっと容易に行われうる未来があるはずだと思います。
実際、このFF16のストーリー自体を冷静に考えてみれば、そういう「丁寧な対話のモード」が成立する流れになりさえすれば、別に主要キャラの誰かを黒人にしても十分成立する感じがしました。
それが結局今回なぜできなかったかといえば、今は「政治的に先鋭化した活動家”以外”の人たち」が持っていた価値観を表現するにあたって大事にしたい部分を切り裂いてしまう形でしか、「黒人や性的少数者を登場させる」事ができない状況になってしまっている事が原因なんですね。
結果として、欧米諸国の上澄みも上澄みの部分では虫も殺せないような「優しい文化」が普及する一方、欧米社会の中ですらその価値観への反感から「もっと徹底して逆をやってやるぜ」みたいな運動が盛り上がって社会が真っ二つになっているし、ましてや中国やロシアやグローバルサウスではそういう「欧米的理想」自体が全拒否にされかねない状況にまでなってしまっている。
つまり今はもう、「二つの世界をいかに溶け合わせるか」が大事な時代になっているってことなんですよ。
欧米的理想と「そのローカル社会が人間的調和を生み出すために大事にしてきた価値観の中にあるコア」の部分を、いかにどちらも否定しない形で両立させていくかが、今後は重要になってくる時代の入り口まで来てるんですね。
以下記事で書いたように、
日米合作映画のスーパーマリオブラザーズムービーが世界中で大ヒットになっているのも、そういう「先鋭化した対立が前提の時代」を終わらせるにあたって日本発の文化が重要な意味を持つ未来を先取りしていると思います。
勿論、過去20年の「ポリコレ型異議申し立ての嵐」の時代にも、新しい価値観を導入していくという意味で必要性があったわけですが、それが本当に「過去からの伝統の延長とフィットして自然になる」ためには、「次の課題」が現れてきているんですね。
私の本でよく使う以下の図のように、「問題が周知されるまで」と「問題を解決する」には別のモードが必要で、過去の強引なポリコレ運動で「提出された問題」は、いかにその社会の「日常レベルの細部の文化」と溶け合わせるみたいな事が最終的に必要になってくる「次の段階」に達しつつあるということなのだと思います。
5. 過去10年の「保守的な日本」が持つ意味を本質レベルで理解することで、「開国」も実現できる
過去10年〜20年の日本が、国として「めっちゃうまく行ってて何の問題もないぜ!」と思ってる人は日本人にも多くいないと思うんですよね。
ただ、私の個人的な意見としては、過去20年は「世界の流行」と「日本社会のコアの美点」との間のギャップが大きすぎて、安心して世界の流行に国を開いていって積極的に打って出るみたいなことは難しかった事情はあるなと思っています。
その間「世界にアジア人の文化を売り込む」のは韓国人さんとかにお任せしておいて(笑)、できる限り過去の遺産を食い延ばして自分たちのコアが崩壊しないように内輪で守って生きてきた意味は、今後必ず”成果”に繋げていけるはず。
要するに過去20年の人類社会というのは、とにかく「個人」ベースの政治的・経済的主張のみをベースにどんどんグローバルでオープンな仕組みの中にあらゆる権限を吸い上げていくメカニズムによって駆動していたわけですよね。
結果として、そのいわば”ネオリベ&ポリコレ全盛期”のムーブメントに全力で乗っかってしまった国では、国の中の分断が激しくなって民主主義社会は分極化しまくり、中国みたいな国では国家の超絶的な強権で埋め合わせないと国が成立しないところまで来てしまった。
要するに、「欧米の意識高い系の論理」は「最終的に目指すゴール」としてはいいけど、それだけを全面化して古い社会を徹底的にディスりまくるみたいなのは、
実際あんたら現実の人類社会をマネージできてないじゃん!第三次世界大戦寸前になってんじゃん!
…という現実問題にぶつかり、むしろその「欧米的な意識高い系の理想」が世界の半分の社会の中で完全に拒否されかねないところまで来ている。
私の本の中の図でいえば、ありとあらゆる「概念先行の意識高い系の原理主義化」を、日本社会がそのリアルな保守性で受け止めきってから…
その先で、「欧米的理想」と「非欧米的ローカル社会側の人心のアヤ」を、決して1ミリグラムもどちらが「上とか下」とかいうジャッジをしない形で溶け合わせていく使命が我々日本人にはあるわけです。
逆に言えば、「ネオリベ(経済面)」における改革でも、「ポリコレ(政治面)における改革」でも、
過去20年の日本の保守性に見えていたものの中に潜んでいる、”人類社会レベルの本質的な意味”を掘り起こし、新しい時代の基礎として再度位置づける
こういう形↑のムーブメントを日本発でグローバルに展開していくことによってのみ、過去20年の「保守的な日本」が持っていた閉鎖性の副作用(排外主義的な風潮とか、女性活躍云々とか)の解決について、欧米でのように「社会の上澄み特権階級限定で」ではなく、社会の隅々まで安定して押し広げていくことも可能になるでしょう。
まあ、まだまだ色々とギクシャクする問題は発生すると思いますが、徐々に「グローバルvsローカル」という対立自体を無効にする流れを、日本発に起こしていけるかが重要ですね。
「日本社会のローカル側の価値の根本」を「グローバルなムーブメントの延長線上」に位置づけて、そこに新しい「新vs旧」「東vs西」「欧米vs非欧米」みたいなあらゆる人類社会の分断を超えるようなゴールを設定していく事が今後の日本の課題です。
そうすれば、今まで動きが鈍かった経済面においても、
・「自分たちのコアの価値を崩壊させずに守りながら世界の潮流に無理なく乗って売り込んでいける」
…ようにできるし、またいわゆる”社会正義”的な面においても、
・「色々な社会問題を”先鋭化した政治主張が自己目的化した活動家のオモチャ”にさせずに、粛々と”困っている当事者”のために不利益にならない具体的な細部の利害調整を実行できる」
…ような転換が起こしていけるでしょう。
こういう「メタ正義的」なムーブメントが安定して作動すればするようになるほど、日本社会がその短所として持ちがちな「排外的」だったり「同調圧力が強すぎる」的な問題も発展的に解消されていく未来が見えてくる。
あらゆる面で真っ二つに分断されゆく人類社会では、「そういう存在↑」がいてくれないと第三次世界大戦も不可避ってぐらいなので、日本がそれを実現できさえすれば、そういう存在が経済的に繁栄しないなどという事はありえないレベルになりますよ。
あらゆる20世紀的な紋切り型の対立を超えたところの本当のゴールに向かっていく使命が我々日本人にはあるわけです。
頑張っていきましょう。
とりあえず、以下の本なんかを参考にしていただければと思います。
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長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。
いくつか関連記事としては、最近の日本漫画の海外売上が「爆増」レベルに増加している件について数字で確認しながらその現象が持つ意味について考察した以下の記事↓や、
「韓流のように世界に売り込む」が日本コンテンツの場合なぜできないのか?逆に日本のコンテンツがその美点を失わずに世界で売るのに必要な戦略は何か?について考察した以下の記事↓
…などもお読みいただければと思います。
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さて、ここ以後は、最近の「ポリコレ問題」の大きな話題だった、「黒人が演じる人魚姫」=リトルマーメイド実写版の話をしたいと思います。
こないだのマリオの記事
と「対」になる記事を書こうかな…と思って公開初日に半分仕事のつもりで観に行ったんですけど、個人的には結構好感しました。
興行成績についても、マリオほどの超絶大ヒットとは言えないが、実写版ディズニー映画としてはまあまあの好成績(アラジンより上)ぐらいにはなっているらしい。
ただ、SNSでの論争を離れてこの映画見てて思ったのは、なんか「案外保守的な映画なんだな」ということなんですよね。
主人公を黒人が演じた以外の部分は、むしろ古典的なディズニープリンセス映画に戻ったところがあるというか、過去10年のディズニー映画・・・例えば「アナ雪」なんかに比べたらよほど保守的なストーリーになってるなと思いました。
要するに、「自己目的化した政治的先鋭化の時代」は、この「ポリコレムーブメントの化身」のように思われている「黒人が演じるリトルマーメイド」の中でも既に「終わり」に近づいてる兆候があるというか、既に「広げた風呂敷をたたみにかかってる」要素があるんだなと思ったんですね。
そのあたり、ディズニーの過去映画、例えば「アナ雪」なんかとどう違っていて、この「ポリコレ側の流行」も「風呂敷をたたみにかかってる」流れがあるのだ・・・というような話を以下ではします。
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つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2023年6月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。