「人格」には5つのレベルがある

黒坂岳央です。

人の価値観や生き方は多種多様、十把一絡げに乱暴にカテゴライズはすべきではないかもしれない。だがなかなか説得力を持つ「5つの人格レベル」を見た。もう随分前にどこかの書き込みで見つけたもので、記憶もおぼろげかつソースを再発見できなかった。概ね、次のようなものだったと記憶している。

1. 他人の夢を叶える手助けをした者
2. 自分の夢を叶えた者
3. 努力したが夢破れた者
4. 何の努力/行動もしなかった者
5. 自分は行動しない評論家

「なるほど」と思わされる分類である。思うことを述べたい。

Pornyot Palilai/iStock

夢を叶える者、叶えさせる者

まず、着目すべき点は1と2である。一般的な印象としては「夢を叶えた人が最上位」ではないだろうか。しかし、このリストでは他者の夢を叶える手助けをした者こそがトップの人格者となっている。これはどういうことだろうか?

まず前提としてすべての人は、自分自身のために行動や決断をする。「子供のために、仲間のために」と愛情をかける人物であっても、すべての行動や決断は大局的に見れば、やはり自分自身のためにやっている。相手から求められる存在になるとか、感謝を集める行為がまわりまわって自己愛を満たすことにつながっているので、こうした人格の持ち主はせっせと他者へ愛情をかけるということをする。

だがそれでも世の中を俯瞰すると、一部の人格者は行動の大部分が利他的である。Giver(与える者)とTaker(受け取る者)に分類するならば、明らかに前者の属性を帯びている。

なぜこのようなことができるのか? それはある程度自分がやりたいことを叶えてしまい、「自分自身を幸せにする」という段階に満足したことで次は愛する者、リスペクトできる者を幸せにすることが自分自身の幸せになるというステージへ登った、という解釈ができると思っている(前述の通り、このGiverという活動が結局は自分自身のためになっているのだが)。

自分自身でも幾分、この感覚がある。自分はまったく大成功者などではない。あくまで自己満足感かつ矮小な願望ではあるが、「いつか叶えたい、実現させたい」と思うことは一通り叶えることができた。だから20代後半、30代で持っていた「野望」は今はない。子供ができたという環境変化でテストステロン値が低下してしまい、生き方が保守的になったのか? と不安になった瞬間もあったが、自己分析をすると願望のほとんどは子供が生まれた後に叶えたのでこの仮説は否定された。

やはり、ある程度やりたいことをやったので、自分自身だけで楽しむより、他者を喜ばせる活動の方が楽しくなってしまったという感覚が正しいかもしれない。

このような経験値から他人の夢を手助けしたり、喜ばせることが自分自身の楽しさや幸せになるという人格を持つには、まず自分自身を満足行くまで幸せにする段階を経る必要があると思っている。

マズローの5段階欲求説でいえば、最上位の自己実現欲求が「社会貢献」や「他者の夢を手助けする」といえる。しかし、そこにいくにはまず下位「欠乏次元」の欲求段階をすべて突破する必要があるということだ。

もっと誇るべき「努力をした者」

このリストによると3つ目は「努力したが夢破れた者」となっている。一見する「夢を叶えられなかった」という点でネガティブに思える。だが実はそうではない。夢の実現有無に関わらず、挑戦したこと自体がとてつもなく大きな実績なのだ。

自分が会社員になって驚いたことがある。それは世の中、勉強する人はものすごく少数派ということである。確かに多くの会社員は会社で必死に仕事をしている。残業まみれになりながら頑張って働く。しかし、余暇時間に自分を高める活動を頑張る人はほとんどいない。

自分は20代後半で会社員になったのだが、余暇時間や土日祝日の理想的な使い方はキャリアアップや市場価値を高める知識やスキルアップをするのに使うのが「当たり前」という感覚だった。毎日の通勤電車内や、職場の休憩時間は読書をしたり、勉強をして市場価値を高めることに時間を使うのが「普通」なのだと思っていた。

しかし電車内を見渡せばそうでないことがわかる。社会人になると勉強する人はほとんどいない。こうなると望む/望まずに関わらず、結果として「現状維持」になる。電車内だけではない。月に1冊の本を読む人すら、圧倒的に少数派だ。

「今どき、ネットがあるのに読書なんて情弱だ」と一笑に付す人はいるが、じゃあ彼らがそのネットを使って自分の市場価値を高めること、粗利を稼ぎ出すことに直結する活動へ時間を使っているか?と問われればどうだろうか?

だから結果を出す、出さないの前の次元で「自分を高める活動に努力をしている者」はもっと自分を誇るべきだ。そのような活動に時間を使えるのは、全体の10%もいないだろうから。

他人の評論家は最下層の人格

こんなことをいうと厳しい反発も予想されるが、構わず意見を言わせてもらうと、他人を必死に批判する人は人格としては最下層に近い存在とされるのも仕方がないと思っている。根拠を話したい。まず、余暇時間をどう過ごすかは本人の好きにすればいいし、法に触れる誹謗中傷でなければ我が国において批判は自由だ。そして建設的な批判なら有益である。クリエイティブの世界においては、批判が次の名作を作ることもある。やりたい人は好きにすればいい。

だが、たった1回しかない人生の活用法として自分自身の人生を評論することを棚上げし、限られた時間を他人の評論ばかりすることは果たして本当に人生におけるプライオリティは高く、有意義な活動と言えるのだろうか?

「発信者なら批判意見も受け入れる器を持て」という免罪符を掲げ、自分は匿名アカウントで反撃を受けない安全地帯に隠れ、リスペクトを欠き、脳内に浮かぶ言葉を無編集で相手に投げつける行為は、果たして「器」を持った人物による行為といえるだろうか?筆者からするととても稚拙で子供じみていると感じてしまう。

実際、子供は気軽に批判をする。自分は保育園、小学生の子供がおり自分の子以外とも会話する機会がよくあるが、彼らは自分の好き、嫌いを自由に語り、その話を大人に共感してもらいたい欲求が透けて見える。未熟な子供ならそれでもいい。成長とともにそれは抜けていく。だが立派な大人がそれでいいのだろうか?

本来、建設的な批判をすることはかなり高度な知的活動である。大局的、多面的、相対的、絶対的基準に基づき、感情を排除して冷静に事実ベースで行われる必要がある。感じたことを無編集に撒き散らすだけなら、それは飲み屋でのつまらない愚痴レベルの域を出ることはないだろう。

筆者は他人の評論をするより、自分自身の生き方や考え方、決断の評価などを評論する方が有意義だと考える。なぜなら他人にダメ出しをして自分の人生が向上することは一切ないが、自分の人生を冷静に評論し、必要な反省をすれば間違いなく自分の人生は良くなるためだ。

人格は生まれつきの才能や器ではない。マズローの5段階欲求説に基づき、1つ1つ下位の欠乏次元を登っていき、承認欲求の壁を破ることができたならば自己実現欲求に至る。自己実現欲求を利他的行動につながる活動にあてれば、必然的に他者の夢を手助けする者になる。一度しかない人生、できればこの人格を目指すのは有意義な生き方ではないかと思っている。

 

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ビジネスジャーナリスト
シカゴの大学へ留学し会計学を学ぶ。大学卒業後、ブルームバーグLP、セブン&アイ、コカ・コーラボトラーズジャパン勤務を経て独立。フルーツギフトのビジネスに乗り出し、「高級フルーツギフト水菓子 肥後庵」を運営。経営者や医師などエグゼクティブの顧客にも利用されている。本業の傍ら、ビジネスジャーナリストとしても情報発信中。