年末年始に、普段時間なくてなかなか読めないタイプの本を読もうと思って、色々と人文社会学系というか、いわゆる『文系の学問』の本を何冊か読んでました。
そしたら、ある種の文系の学問世界における「今のトレンド」が色々と感じられてかなり有意義だったんで、今回はその話をします。
テーマは、時々「対立関係」として捉えられることが多い、
『文系の学問』vs.『現実社会のリアリティ』
…みたいな問題について、今後どういう方向に進めば有意義なのか?という感じかな。(色々分野がある中でかなり雑に”文系の学問”ていう言葉を使っていますが、とりあえず今回はざっくりした議論として受け止めてくれればと思います)
扱いたいのは大きく2つのテーマがあって、ひとつは、歴史学者・社会学者の田野大輔氏が「ナチスは良いこともした」という言説について徹底的に批判する活動を最近されているんですね(この本とかですね→「検証 ナチスは良いこともしたのか?」)。
で、そういう歴史学的研究成果の話は面白く読んだんですが、同時に田野氏はナチス的な悪の源泉として『悪の凡庸さ(byハンナ・アーレント)』というワードを無批判に使う風潮をやたら批判しているんですよ。
例えばナチスに関する映画の評で、佐々木俊尚氏とか成田悠輔氏とかが「悪の凡庸さ」というワードを使っていることを「これは一番載せてはいけない映画評」とまで言って批判している。
で、僕自身はこの意見↑に対して反対で、あとで紹介しますが佐々木俊尚氏や成田悠輔氏の発言はそれ自体別に普通に穏当な映画に対する意見であって、あの程度のものまで否定しはじめるのはそれはそれで「党派的な押し付け」であり、そういうのがむしろ余計に「ヒトラーは良いこともした」的なバックラッシュが起きる感情的源泉にもなっていると考えているんですよ。
ともあれ、その後田野氏が歴史学研究者だけでなく、「思想史研究者」も交えてこのハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」という概念について議論するという本を出されて、(<悪の凡庸さ>を問い直す)、これを年末に読んだんですが…
この本は、歴史学だけでなく思想史研究者が集まってそれぞれの立場から議論していて、で、
田野氏に対して僕が反論したいなと思っていた点はだいたいこの本の中で「思想史研究者」の人たちが反論してくれていた(笑)
…のが物凄い印象的でした。
で、ここからが考えさせられることなんですが、
「田野氏型の議論」に対して思想史研究者側が反論するときに、何度も東浩紀氏の論考が引用されるシーンがあった
…んですよね。それが「もう一つのテーマ」に繋がってくる話なんですが。
田野氏とはかなり「思想的に逆」な感じですが、数ヶ月前に出た東浩紀氏の『訂正可能性の哲学』という本もかなり話題になっていて、読んだ方も多いかと思うんですが、個人的な見解ですけどライトな読者にはあの本の『意義』はあまり理解しづらいところがあるんじゃないかと思うところがあるんですね。
というのは、東氏の論考は「”今の文系の学問”に対する問題提起」を多分に含んでいるんですが、「今の文系の学問」っていうのがどういう感じか全然わからない読者には「何について誰と戦っているかわからん」みたいなところがあるんじゃないかと(笑)
(繰り返しますが”文系の学問”にも色々あるけど、”今SNSでよく揉め事になってるタイプの文系の学問”だと思って貰えればと思います)
僕もある程度そういう気持ちはあって、『訂正可能性の哲学』については発売直後ぐらいに読んでいたんですが、まあ内容については感銘を受けたものの紹介記事とか書評を書こうにもうまく切り口が浮かんでこない状態でちょっと放置してたんですよね。
ただ、田野氏が「思想研究者」と激論を交わした『悪の凡庸さを問い直す』を読んでいると、逆に「訂正可能性の哲学」の重要性が浮かび上がってくるというか、それとの対比の中で、東浩紀氏の思想や、あるいは今の『文系の学問』が抱えている問題の総体が見えてくるんじゃないかと思いました。
…というような方向性で、「田野氏のような志向性」と「東氏のような志向性」が今の『文系の学問』の中でせめぎ合っていて、そして人類社会はどうそれを扱っていけばいいのか?みたいな話を考察します。
あともう一冊、これはもうただAmazonのアルゴリズムが「あなたコレ読んだらいいですよ」って薦めてくれて全く前情報なしに読んだ朱喜哲氏の「フェアネス(公正)を乗りこなす 正義の反対は別の正義か」が凄い考えさせられたので、その話もします。
朱氏は、「人間のタイプ」としてはぶっちゃけ『田野氏側』のひとだと思うんですが(笑)、ただ世代的な問題があって田野氏的な立場の”絶対性”を信じきるのには非常に慎重なタイプと見えて、田野氏的な世界観と東氏的な世界観の間を「動的に調整して合意点を見つけていくシステムの構想」みたいなのを持っている感じでした。(その点僕が提唱している”メタ正義構想”にかなり近い感じで勉強になった)
田野氏は1970年生まれ、東氏が71年生まれなんですが、朱氏は85年生まれ、で、これ書いてる僕は78年生まれでちょうどその間ぐらいにいる感じですが、田野氏や東氏の世代においては「交わらない対立」だった問題を、下の世代になるほど「何らか統合的な視座を作っていこう」とする流れが起きている感じなんじゃないかと。
ちなみに僕はこういうアカデミックな「文系の学問」研究者とは違ういわゆる「亜インテリ」ですが、経営コンサル業の実践をしつつ、そこから得られる知見を「思想」的な形でも展開して日本社会に影響を与えていこうとしている「思想家」業もやっているという立場です。
ともあれ、まずは今回読んだ本を紹介した上で、本題に入ります(とりあえず今回の本題に関わる4冊だけ紹介します)。
● 田野大輔・小野寺拓也・香月恵里・百木漠・三浦隆宏・矢野久美子 『<悪の凡庸さ>を問い直す』
● 東浩紀『訂正可能性の哲学』
● 東浩紀『訂正する力』
● 朱喜哲『公正を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』
1. ナチスの悪は「誰の悪」なのか?問題
冒頭で紹介した、「ナチス関連の映画」っていうのはコレです。
上記サイトに、色んな著名人が推薦の映画評を載せてるんですが、田野氏が問題にしているのは以下の2つですね。
地獄は悪魔が作るのではない。
賢くマメで、タダ飯に弱く、周りをキョロキョロしながら隣の席の上司にはつい相槌を打ってしまい、後悔しても帰り道の酒で忘れるような凡人こそが作るのだ。(成田悠輔)
血も凍るような残虐きわまりない提言や判断が、なんとも官僚的で静かな会議で繰り返されている。そのギャップに戦慄した。
哲学者ハンナ・アーレントの言った「凡庸な悪」がまさに具現化されたような物語(佐々木俊尚)
先入観なしにこれ↑を読んで、賛成とか反対とか、鋭いとか普通だとか色々思うことはあると思いますけど、これが「決して載せてはいけない映画評」だとかいうほどの問題があるとも思えないというか、この程度の「言葉尻」まで全否定しまくってたら「自分の意見の仲間」を広く社会の中に募っていくなんて不可能になるじゃないかと僕個人は思いました。(そう思う人も多いのではないかと思います)
ともあれ、田野氏がこれを否定する理由を、映画評論家の町山智浩氏が以下のように補足していて…
読者の基礎知識をどの程度に見積もって書けばいいのか迷いますが、まあ人によっては迂遠でしょうがざっくり書くと、
まずアドルフ・アイヒマンという人がいて…
アイヒマンは「ユダヤ人虐殺」において非常に重要な役割を果たした存在ですが、戦後長らくアルゼンチンに逃げて存命で、その後1960年にイスラエル諜報特務庁(いわゆるモサド)に捕まってイスラエルで裁判にかけられる(最終判決は死刑)んですね。
で、その裁判についてハンナ・アーレントというユダヤ人女性の思想家
…が傍聴記録をニューヨーカーという雑誌に発表していて、そこに出てきたのが有名な
『悪の凡庸さ』
…という概念ということになります。
で!
「悪の凡庸さ」という概念は、一般的には「いわゆる”組織の歯車”的に唯々諾々と決まったことに従ってるだけでとんでもない結果を招いてしまう存在」みたいな扱いになってるんですが、田野氏らの研究によると、アイヒマンは単に「官僚機構の歯車の一部」というよりも、かなり積極的に「仕事力」を発揮して「ユダヤ人問題の最終解決」のエスカレートに主体性を発揮した存在だということが、最近の歴史学研究から明らかになってきているそうです。
だから、そういう「有能な主体性」を発揮したアイヒマンみたいな人物を「悪の凡庸さ」というような用語で捉えるのは限界があるのではないか、というのが田野氏の主張なんですね。
2. 『有能』じゃないと1100万人も虐殺したりできないというのは事実
で、確かに映画「ヒトラーのための虐殺会議」を僕も見たんですが、個人的な感想としては「登場人物が凄い仕事できる感」が恐ろしい映画だったんですよね。
これは「ヴァンゼー会議」という有名な歴史上の会議を、ほぼそのまま残ってるスクリプト通りに演じた映画なんですね。
ナチスにおいても最初はぼんやり「ユダヤ人問題の解決」というのはドイツ国外に追放しちゃえばそれでいいじゃん、みたいな話だったのが、東欧の占領地にも大量にユダヤ人が住んでいてみたいな問題とぶちあたってニッチもさっちも行かなくなった結果、「いかに効率的に殺害してしまうか」みたいなぶっ飛んだ方向に「合理的な決断」が積み重ねられていってしまう。
「ヴァンゼー会議」は、その「東欧だってもう一杯一杯だし、殺すって言ったってお前1100万人を殺すのって物理的にガチで大変なのわかってる?」みたいな「現場からの突き上げ」が「ユダヤ人問題の解決」という政府方針とぶつかりあってるぐらいの状況なんですが、ドイツ人ってある意味スゲーなと思ったのは、そこで「決してグダグダにならない」みたいな部分なんですよね。
映画見たのちょっと前なので細部は忘れちゃいましたが、
「X万人殺すとしたら銃弾が最低これだけ必要だし、それだけの補給計画ができてないじゃないか」「”あの方法”ならもっと効率的に”処理”できるのでは」「運送のコストはどうする?」「こうすれば運送コストは抑えられるのでは」「ドイツ国籍持ってるユダヤ人の場合の法的な扱いについてはどうか」「それは法務省として受け入れられない」「こういう解釈なら法的整合性が取れるのではないか」
…みたいな事を、時々影の根回しとかその他を含めてどんどん「現実的に処理する手際」がかなり「すごい有能」感がありました。
佐々木氏も成田氏も(特に成田氏は)あまり「組織で働く」ってタイプのキャリアじゃないと思うので、彼らからするとああいうのはちょっと「コモノっぽく」見えるんだと思うんですが、でも実際「組織で働いてる」人から見れば、むしろ「妙に仕事できる感」が怖い映画だったと言えるように思います。
特に、縦割りの部署ごとに色々な利害関係がある中で、「解決するべき課題の定量的側面」を決してごまかさずに算出した上で、相手側の部署の利害も理解した上で話を通していく手際…とかは、「組織人としてガチ仕事できる感」がやばい。
その『仕事できる感』をものすごく発揮されてどんどん決定されていく「合理的な判断」の結果が、1100万人のユダヤ人を殺害しちゃうことだったっていうこのギャップが恐ろしいんですよね。
大日本帝国の「戦争被害」ってざっくり言うと「計画が杜撰だったこと」が原因なことがほとんどだと思いますが、ドイツ人はむしろめちゃくちゃ「計画的にユダヤ人を”処理”」しちゃった恐ろしさがあるってことが伝わってくる映画なんですよ。
これ、前も書いたんですが、日本における「イデオロギータイプ」の人間はあんまり定量的に細部を詰める能力がなくてグダグダになってしまいがちなんですが、ドイツの「イデオロギータイプ」の人間は、本人そのものじゃないかもしれないけど「定量的にちゃんと考えて現実を動かせる人間」とタッグを組める構造になってるところが彼らの美点でも怖さでもあるなと。
日本における「定量的な仕事力」を持ってる存在は自動車会社とかそういうあまり「イデオロギー色のない」ところでしか発揮されづらいんですが、ドイツの場合はその「イデオロギー的先鋭性」と「定量的な仕事力」がタッグを組んじゃう凄さ(あるいは恐ろしさ)があるというか。
このへん、以下記事で電力システムについて取材したときにも思ったんですが、「脱原発を実現したドイツ」は「脱原発というイデオロギー」を物凄い定量的に分析して具体策を練り上げていってたけど、日本の「脱原発派(の主要な活動家)」はいわゆる「できぬできぬは工夫が足らぬ」的な感じというか、「東電と自民党が悪い」「再エネを導入しさえすれば全部うまくいくはずなのに」って言うだけだったみたいな違いを感じます。
再エネ普及は「宗教家」から「実務家」の時代へ。未だ残る大課題「電力供給の安定」を皆で考えればもっと先に進める
3. 「悪の凡庸さ」問題が紛糾する本質的な理由は何なのか?
で、アイヒマンが「凡庸な悪」といっても、ただのアホじゃないことはわかったと。その上で、彼のような存在も含めて「凡庸な悪」というコンセプトにまとめてしまっていいのか?っていうのがここでの課題なんですね。
この問題が紛糾する本質はどこにあるかというと、アイヒマンを「悪の凡庸さ」と呼ぶことを拒否したい田野氏や町山氏の世界観においては、
・唯々諾々と従った歯車としての民衆や小役人=ちょっと悪
・組織の歯車だったとはいえ「有能な主体性を発揮した存在」としてのアイヒマン=許されざる極悪の存在
…というように「悪の扱い」に格差をつけて論じたいという欲求があるんだと思うんですね。
で、ちょっとうがった見方をすれば、できれば「ナチス的現象」が人類史の中で起きてしまう原因を全部この「アイヒマン的な存在」におっかぶせてしまいたいという欲求があるのだと私は感じます。(田野氏ご本人は歴史学者として多少なりそこに慎重だと思いますが、彼の言説を持ち上げているフォロワーの中には明らかにそういう欲求があると思う)
これを読んでいる読者のみなさんはどう思いますか?
個人的にはこういう志向には反対で、これはある種の「民衆無罪論」が前提になっているというか、
「純粋な善なる被害者としての民衆」と「加害者としてのエリート」という構造を決して揺らがせたくないという欺瞞
…を含んでいるように思うんですね。
そして、今の人類社会で最も喫緊の課題みたいなものとして、こういう立場性↑の欺瞞が白日のもとに晒されつつあるみたいな流れが起きているのだと私は考えています。
もちろん、「民衆無罪論」的な前提で論理を立てることで、「エリート的立場の人間が私欲に走るのを掣肘する効果を持つ」のは確実で、そういう論理が「破壊される」ようになったらダメなんですけど。
そうはいっても「時代の流れの結果としてナチス的現象が起きてしまう」となったときに、それを「目覚めた個人」が「目覚めた個人であり続けさえすればこういう事態は防げるのだ」という発想自体が非常にアナクロな感じというか、人類社会における「個人」というものを過大評価しているところがあると思います。
いや、正確に言うと「個人」は物凄い大事なんだけど、そういう人が言う「個人」というのは「自分(と自分と同じ思想の少数の仲間)」のことしか前提としてなくて、「一億人とか八十億人とかいる他人」の分の「個人」はちゃんと想定してない感じなんですよね。
そこにたち現れる「他の個人」との間のインタラクションの問題を放置しがちというか。
「悪の権力者」と「われわれ市民」って言うとき、その「われわれ市民」っていうのは一億人とか八十億人とか実際にはいるはずなのに、そこを物凄い同質的な存在だと前提してしまっていて「その内側にこそある問題」を巧妙にスルーしてしまうんですよ。
そういう部分はむしろもっと構造主義的に見るべきというか、社会内部におけるディスコミュニケーションによる相互理解の停滞とか、現実的課題の細部が二項対立の党派争いの結果放置されてしまう非効率とか、あるいは伝統的な人心の義理の連鎖が社会を安定化させていた砦になっていた効果を軽視して無理やり破壊しようとするとか、そういう「即物的な問題について責任を持って考えない態度」が積み重なると、ある種の「全体主義」的なムーブメントに乗っ取られてしまうというように考えるべきではないか。
そして、その「知的議論と社会との間の双方向性の機能不全」が放置される苛立ちが極限に達して「全体主義的ムーブメント」が巻き起こってしまったとしたら、その中で「アイヒマン」と「小役人」との間のギャップは、「そんなものない」とまでは言わないが、それほど大きなものとも言えないのではないかと。
そういう部分で「誰か特定の個人を断罪する」ことで全部が解けるという発想を捨てていかないと、本当に「社会の中にそういうムーブメントが起きてしまう元凶」に立ち向かうことはできないというのが、今の人類社会の状況的に立ち現れている現象なのではないでしょうか。
4. より具体的な話で考えてみる。
ちょっと大きな話になってきたので、具体的な話に引き戻したいのですが、例えば、今回の映画評で佐々木俊尚氏とか成田悠輔氏が批判されていた理由には、ある種の「党派性」も明らかにあると思うんですよね。
もともと佐々木氏や成田氏の事が嫌いというか彼らに批判的だった層が、田野氏の批判に飛びついてSNSでもてはやしているのをかなり見ます。
特に成田悠輔氏の「老人は集団自決発言」に対しては僕自身も批判的ではあるんですが、「彼のメッセージ」自体をちゃんと読み解くことなく印象論で批判するのはフェアではないと思うわけです
と、言う話を以下の記事で書いたんですが…
なぜ日本人の「議論」はこれほど不毛なのか?ひろゆき&成田悠輔的言論に対抗するにはレッテル貼りじゃダメ。
上記記事では、私が昔インタビューを受けた「賢人論」というウェブサイトでほぼ同時期に成田悠輔氏もインタビューされていて、そこに彼の「意見」が過不足なくまとまっている事を紹介しています。
詳しい事は上記記事を読んでもらうとして、ざっくり言うと成田氏のメッセージは、以下のような感じです。
- 自分もクモ膜下出血で倒れた母親の介護が大変だった時期があり、日本の福祉制度に非常に助けられた。米国だったらもっと大変で、見捨てられてしまっていただろう。
- しかし、世界一の高齢化で現役世代とのバランスが崩れ、今後この制度が現行のままでは維持できない事は明らかで、どこかで破滅的な崩壊が来るよりは、意図的に刈り込んで維持可能な制度に転換する必要があるのではないか?
- その部分で「効率性」の基準で工夫をすることは「人間性」と対立しない。むしろ相互補完的な事であるはずなのに、日本ではむしろそこで少しでも「効率」の発想を持ち出すこと自体を排除してしまっている。
これ↑を読むと、むしろ「気鋭の経済学者なりの真摯な問題意識から来る提言」っていう感じがしてきますよね?
私もこのレベルの内容には100%合意ですし、「集団自決」発言だけを切り取って「ナチスの同類」と思っていたような人でも、納得する人が多いのではないでしょうか。
で!
世界で最も少子高齢化した日本における医療システムの維持っていうのは、「思想性」とはあまり関係なく喫緊の課題として、何らか具体的に考えないといけない課題だと思うんですが、そのはるか手前でレッテル貼りしあっててもダメじゃないですか。
例えばよく批判されてる「コンビニ受診」みたいなレベルのニーズに際限なく応える体制を多少削ってでも、「高額医療費助成制度」はなんとか残そう、とか、自分たちが考える「日本社会にあるべき医療補償制度の理想」をなんとか維持可能にするために知恵を絞らないといけない課題がここにはあるはず。
「持続可能な制度設計の工夫」の話を誰もせずに、単に成田氏に「老人に●ねというのか!」とか「優生学の再来だ!」とか言って終わりにしてたら、売り言葉に買い言葉で「ああ、そうだよ●ねってことだよ!」みたいな話にもなるし、成田氏の発言のような方向性が持て囃される空気になってしまったりもする。
「そこに現に起きているディスコミュニケーション問題」の一端は、
「純粋な善なる被害者としての民衆」と「加害者としてのエリート」という構造を決して揺らがせたくないという欺瞞
↑こういう「民衆無罪説」的な構造を乗り越えることでしか解決できない。
「民衆の動き」も含めて色んな立場の人が入り乱れて議論が混乱している状況を、ちゃんと「解決する」方向に動かしていく必要が生まれる。
要するに、何やるにしても現代社会は専門家がそれぞれいるわけなんで、そこと協業しなきゃ話が始まらないわけですよね。
脱原発したければ、電力システムの専門家と具体策を練るべきだし、
日本における移民・難民問題を解決したければ、「その分野の専門家」と細かい法律問題でどういう線引きにするべきかを精査するべきだし、
「医学部入試の女性差別問題」を解決したければ「医療システム改革」にまで踏み込むようにしないといけない。
また、もっと「再分配」する経済にしたいというなら、欧米では国際的になんとか法人税率をあげようとする理論的な枠組みが育ってきているので、
そういう構造と連動することで「国際競争上実現可能な法人税率上昇プラン」を作っていかないといけない。
ここで日本では、なんか「自民党とか日本政府とかいうクズどもが悪い」っていう視点で吹き上がって終わりになりがちで、どうやったらそこに「双方向性」を持った議論が可能になるのか?という視点が欠けがちだと思います。
5. 「文系の学問など役に立たない」という話をしているのではなくて、むしろ逆。
なんか、こういう批判は、今の世の中ありふれてる面もあると思うんですが、僕が言ってるのは「役に立たない文系の学問なんかやめてしまえ」っていう話じゃ全然なくてむしろ逆なんですよ。
『文系の学問』の知見をもっと世の中に活かしていくには、「象牙の塔の”外側”」との”双方向的な”インタラクションが必要ですよね、という話をしている。
私の経営コンサル業のクライアントで、中京地区で女性の登用にかなり気を使ってる会社があるんですが、「そういう会社が抱えている歴史的経緯や課題」自体を尊重して向き合う気があるなら、その先では「マイクロアグレッション」みたいなジェンダー学的な知見が意味を持つんですよね。
でも、「そういう会社が抱えている個別具体的な難しさ」とかを全然勘案せずに「お前らは間違ってる」って言うだけだったら取り入れようがないじゃないですか。
以下画像のように、「問題が周知されるまでの段階では非妥協的である必要がある」のも事実ですが、いざ問題が周知されたあとの「解決する段階」にいどむには具体的な解決策を積んでいく『双方向性』が必要になる。
確かに今はまだ「左側」の「滑走路段階」にいる問題も沢山あるだろうし、田野氏がSNSで吠えまくってくれたおかげで僕がこの問題に気づいてこの本に出会えた、というのは紛れもない事実(笑)なんで、現段階ではそれでいい面もあるんですけどね。
ただ「このモード」が最終形と思ってもらったら困るというか、もっと先の「双方向インタラクション」の形が必要ですよね。
「SNSで騒いでいるタイプの人に反論する」のも大事だけど、そういう「党派性の罵りあい」と違うところで、現実社会の要請に対してあと一歩違った関わり方をしていくべき分野があるはずで。
そういう部分でちゃんと「社会の現実を差配している層」との「双方向的インタラクション」から逃げていると、「理想論」と「現実」とのギャップが決して縮まらないまま社会の中で未解決のままでほったらかしにされる課題が山積みになっていって、それへの苛立ちからファシズム的にそれを「押し流してしまう」ようなエネルギーを止めることができなくなってしまう。
そして田野氏がナチス時代のドイツの歴史について主張するように、そういう”強引さ”で実現した政策は一部に良いように見える部分があっても結局総体として非常に不幸なシワ寄せを生じさせがちなものとなるでしょう。
要するに、さっきの成田氏の話でいえば、「世界一の少子高齢化に対応する医療制度改革」という「具体的な課題」から逃げて、成田氏を「ナチスの再来」とか罵って終わりにしていると、「実際の医療制度改革」を主導するのは場合によってはガチで「足手まといの老人は●ぬべき」って考えている人が牛耳ってしまう可能性があるってことです。
そこにこそ、「リーンイン」してちゃんと現実と格闘して参加していくべき課題があるはずですよね?
もちろん、「象牙の塔の内側」での研究には完全な研究の自由が認められるべきだし、その点で最近の日本の大学が不自由しがちなのは解決しなきゃいけない問題ですよね。
それに、田野氏の歴史学研究からの知見はそれ自体色々と勉強になって、「アイヒマン像」がむしろ「凄く仕事できるヤツ」的な見方に変わってきたファクトの積み上げには色々と考えさせられる問題がある。
しかし、その先で「もっと社会と関わろう」とするなら、そこに生まれる特有の難しさとの、「異なる学問分野同士」そしてもっと言えば「学問の”外側”で生きている人々との間の」異文化コミュニケーションが必要になる。
今ここで喫緊に課題になっているのは、
「理屈通りに動かない世の中」を全部ギロチンにかけようとするような、「ハダカの啓蒙主義」みたいなものの傲慢さをいかに掣肘するか
…みたいなことなんですよね。
そしてこれは繰り返すように、「文系の学問なんか役にたたないから黙ってろ」という話じゃなくて、「閉じた絶対性に引きこもってたら現実に活かしようがないじゃん」という話なんですよ。
そういう「ハダカの啓蒙主義の限界」を思想的に位置づけることによって、むしろそれを「現実社会の中で使いやすくする」ということが今必要なことで、東浩紀氏の「訂正可能性の哲学」っていうのは、そういう「課題」に向けて書かれた本なのだと思います。
6. 『訂正可能性の哲学』はどういう本か?
東浩紀氏の「訂正可能性の哲学」は、
「純粋な概念」が「現実」との関わりの中で「受肉」していくプロセス
…について非常に分析的に語っていくことで、
今の人文知が足りていないものが何で、どうすれば「人文知」と「現実との関わり」が「知性の敗北」ではなくむしろ「知性の本当の勝利」に繋がるものになりえるのか?
…ということを掘り下げていく方向性なのだと思います。
ってめちゃザックリ言ってるけど、これ以上詳細な議論はちょっと僕には紹介しかねるので、ぜひ本を読んでください(笑)
この本だけ読んだのがちょっと前ってのもあるけど、僕の思想自体が東氏の思想ともともとかなり近すぎて、混線しちゃって冷静に要約できない感じなんですよね。(あと、東氏はかなり熱意を持って「テックギーク系のユートピア思想」も論破しようと頑張ってるんですが、そこは今回記事の趣旨とかなり外れるということもあります)
でも、この記事をここまで読んで、「訂正可能性の哲学」の意図するところがかなり理解しやすくなったと感じた人がいてくれたら嬉しいです。
なんにせよ、東氏の思想は、「ゲンロン社」という中小企業の経営体験とかなり表裏一体というか、「そういう思想」だから「ゲンロン」をやってるとも言えるし、「ゲンロン」をやってるから「そういう思想」に肉付けが進んだというところもあると思う。
実際、本の中には彼のゲンロン社経営体験からの知見、みたいな話が結構出てきます。
要するに「純粋な概念・コンセプト」の時点ではそれは「中身がないもの」に過ぎなくて、「現実社会」とぶつかって関わり合う”関係性を維持する”ことによって、そこに生起する「誤配」的な繋がりの総体によって「受肉」して具現化していくんだ、みたいなことなのかな。
これって、村上春樹が自分の小説について述べていた、「ある作品の正しい読み方」というのがあるのではなく、「作者から見たら誤解と思えるものも含めて、百万人読者がいたら百万通りに生起する内容こそが”その小説の中身”なのだ」みたいな、そういう捉え方に近いイメージを個人的には持っています。
昔、東浩紀氏の本をいくつか集中的に読んだことがあって、その時に凄い印象的だったのが、
「ノマド」とか「マルティチュード」とか「コモン」とか、そういうコンセプトが大事だとか言うのはいいが、それを言っている本人の多くは大学教員という公務員でしかなく、そういうコンセプトの「実行段階」においてどういう”現象”が生じるかについて全く理解できていない。
…みたいな話をしていて、凄い面白かったんですよね。
「提唱するコンセプト」が「実際の人間の集団」と相互作用してみると、色々と予想もしなかった事が起きるわけじゃないですか。
でもその「予想もしなかった現象のすべて」こそがその「コンセプトに内包されていたもの」なので、それを「間違っている」と否定していってもどうしようもない。
むしろそこで「どう対応(訂正)を繰り返していくか」によって、その「コンセプト」が社会の中に「受肉」し、具現化していく道が拓ける。
さっきも少し書きましたが、「ファシズムに対抗するためには”個人であり続けることが大事だ”」みたいな発想自体はいいとして、そういう人は
「ナマの個人が百人とか一万人とか、一億人とか八十億人とかいて常に相互作用して利害調整を常に行い続けている」という現実の”複雑性”
から逃げてる側面があるんですよね。
で、「ノマド」とか「マルティチュード」とか「コモン」とか、あるいはもっと「Woke」系の社会運動コンセプトでも何でもいいんですが、それ例えば「参加者が100人とか千人とか、百万人とか超えたらどうするの?」みたいな問題に対して物凄い牧歌的な事しか考えていないことが多い。
何ならもっと少ない人数の学会とかSNSの集まりみたいなものでも、めっちゃ強烈に内輪もめしてたりして(笑)、いやいや、「そのコンセプト」で世の中全体に立ち向かうんじゃなかったんですか?みたいな話になる。
「理想を描く」ことは大事だけど、その「理想の実現」に動きたければ「自分たちの仲間」だけじゃなくてもっと「人文知の外側にいる人」に対してそれをアピールし、相互作用し、自分も相手も「変わって」いく中で「受肉」させていかないといけないじゃないですか。
何度も言うけど、「象牙の塔の中」で「第二次大戦期におけるナチスの意思決定プロセスについてファクトベースで議論する」のは思う存分やってくれたらいいんですよ。さっきの東氏の批判も「そのこと」を批判している文章ではないはず。
だけど、そこから先に「現実社会」と関わるときには、あと一歩踏み込んで胸襟を開いた「別のモード」が必要なのでは?ってことなんですよね。
そしてそこにおける「人文知」と『人文知の外側にいる人々』との異文化コミュニケーションのモードが開発されることは、「思う存分人文知をやれる環境を社会に尊重させること」のためにも必須不可欠なことなのではないでしょうか。
7. 「敵対政治勢力」を「ナチ」に例えるのはもうやめよう
ともあれ、田野氏の本で「思想史研究者」とのガチ討論みたいなのを読むと、僕がアカデミアの外から反対したがっていたような事は、「人文知の内側」でもっと穏当で洗練された形でちゃんと反映してくれてる人がいるんだな、という風に思えたのは凄い良かったです。
そして、そういう「狭義の理性万能主義(ハダカの啓蒙主義の絶対化)の反省」みたいな思想運動を生み出していくにあたって、東浩紀氏の活動はやはりかなり大きな意味を持ってるんじゃないかと思いました。
なんかSNSを見ていると、たまに若手でちょっと研究者寄りの左翼っぽい人がかなり唐突に東浩紀氏をディスっててビックリするし、東氏は普段よく動画配信で酒飲んでいかに自分がアカデミア内で不遇な存在かを愚痴りまくったりする人なんで心配してたんですが(笑)
でも田野氏の著作のようにガチにアカデミックな場において、ちゃんと東氏の言説も参照されていてほっとしたところがあったですね。
田野氏がそういう人だという意味ではないんですが、そもそも論として「敵対政治勢力」を「ナチ」呼ばわりするのはそろそろやめるべきだと思うんですよね。
プーチンですらウクライナ戦争は「ナチとの戦い」とか言ってますし、今回のイスラエル・パレスチナ問題では、「ホロコースト博物館公式ツイッター」がイスラエルのガザ侵攻を擁護して大問題になってましたし。
そういう「党派性で便利に使われる”ナチ”」ってむしろホロコースト被害者への冒涜だと思います。
「ナチス」を「誰か個人の罪」とか「ドイツ民族の罪」とか考えてる時点で、それの再発を防ぐ本当に本質的な対策はできないはず。
ファクトベースで積み上げる必要がある歴史学は、思想史研究者がざっくり巨視的に捉えるのに比べてそういう視座を持ちづらいとは思いますが、いずれ歴史学研究もそういう方向に向かうのではないかと思います。
そういう深い部分をえぐった言葉としてハンナ・アーレントの『悪の凡庸さ』という概念は凄い意味を持ってると思うんですよ。
例えば田野氏のウィキペディアによると、彼は「ファシズム体験授業」というのをやっていて、それは以下のような狙いだそうですが…
「権力の後ろ盾があればいとも簡単に、社会的に許されないことができてしまう」ということを学生に考えさせることを目的として、所属校である甲南大学でファシズムの体験学習授業を行っている。学生が同じ服装でナチス式敬礼や「自分たちは正義の側である」という意味づけにより「悪者」を糾弾することなどの体験を通して「集団心理が暴走することの怖さ」を学ぶというものである。こうしたファシズムと同様の仕組みは、現在も世界中で広がる排外主義運動に見出すことができるという。
もちろん排外主義運動はなんとかしないといけないですけど、でもこういう「ファシズム性」を持った集団は「敵側の政治勢力」にだけあるものだと思いますか?
オバマ元大統領がいわゆる「Woke」カルチャーを批判した発言が有名ですが…
オバマ前大統領、ネット上の過激な批判カルチャーを非難「世の中は変わらない」
田野氏の狙いである
「自分たちは正義の側である」という意味づけにより「悪者」を糾弾することなどの体験を通して「集団心理が暴走することの怖さ」を学ぶ
って、まさにこういう「Woke」カルチャーの一部にも当然当てはまる要素ですよね。
「敵側」だけでなく「自分たち側」にも、つまり「原罪に近いもの」ぐらいの存在として”自分も含めてそういう要素を持って生きている”ことに自覚的になるところから出発しないと、
「自分たち善人」とは違う「巨悪」が社会には存在していてそれをやっつければオールハッピーなのだ
…というのはファンタジーでしかない。
こういう反転可能性を常にセルフチェックしながら、どうすれば「社会の逆側にいる」人たちとの双方向コミュニケーションを実現することができるのか?を考えるべき時代になってるはずですよね。
ちなみにハンナ・アーレントは、歴史的にありとあらゆる「知識人主導の強引なユートピア幻想」に批判的だった人みたいで、ある種の「狭義の知性の勝利」を夢想したいタイプの人たちから定期的に攻撃されてるのもわかる感じはします。
なんせアーレント氏は、当時の知識人の切なる夢だったソ連とか文化大革命期の中国だけじゃなくて、さらにはフランス革命にすら批判的だったそうなので。
でも今の人類社会の現状を考えると、
「理想」を追うのはいいけどその熱狂のままロシアに大軍送って首都級の街を一つ丸焼けにするような事されたら困るよね…という不具合のツケを払わされている
…みたいなところがあるような?(個人的な意見としては、ファシズムもこういうレベルの巨視的な”作用”・”反作用”の結果の出来事として理解し対策していくべきだと思っています)
ある意味で過去二百数十年ぐらいの人類社会っていうのは、
自由平等博愛とか人権思想とか、そういう「理想」を実現するための熱狂を維持するためには、たまにやりすぎちゃってロシアみたいな辺境の蛮族の都市なんていくつか丸焼けにしたって仕方ないよね!そのおかげで今人類は人権思想を共有できてるんだし!その大義に比べたら些末な、必要な犠牲だったよね!
…みたいなモードでやってきたわけですけど、こういう傲慢さは「欧米」が人類社会のほんの一部にすぎなくなっていく時代には維持不可能になってくるわけですよね。
結果として「人文知的理想」の『外側』との双方向コミュニケーションこそが必要だというのは、もう当然の時代の要請になってきつつある。
「アイツラはバカだから我々の正しい議論を理解していないぞ。これはいかん、もっと強くお説教して理解させなくては!」
…みたいな態度の限界が、今の人類社会の現状を素直に見れば当然の結論として導かれるだろうからです。
自分たちが属する流派のサークルの『外側にいる存在』とちゃんと「同じ場を共有する」ような形を維持し、その先で「生起」し「誤配」されてくるあらゆる計算外の事象も含めて常にフィードバックを受け取り変化し続けていくことの中に、「描かれた理想」の実現の道は生まれるわけです。
8. 田野氏 vs. 東氏の世代の世界観対立は、下の世代では止揚されてきつつあるかも?
とはいえ、東氏の議論は(僕の議論も)ちょっと一種泥縄式に見えるというか、もっとスマートな?「狭義の知性の勝利」を信じたい人もいるでしょうが、そういう流派(いわゆる”左翼?”)の中でも下の世代はかなり違う発想があるんだな、っていう感じがあるんですよね。
それが、冒頭で紹介した朱喜哲氏の「公正を乗りこなす」なんですけど。
この本、何の前情報もなしにAmazonにおすすめされて読んだんですけどかなり印象的でした。
上記の書影の「サブタイトル」がなかなか凄くて…
・正義の反対は別の正義か?
・正義は暴走しないし、人それぞれでもない。
このサブタイトル見たら物凄いファナティックな人なのかな?って思うじゃないですか(笑)
・「正義の反対」は別の正義じゃなく「許されざる悪」に決まってるだろ!
・「正義の暴走」とか言うやつはただ「社会に蔓延る悪」を温存させたいだけの「権力者の犬」なのだ!
こういう感じ↑の事を言ってる人たまにSNSで見かけますけど、この本の「サブタイトル」はかなりそういう感じに見える(笑)
そう見えるけど、内容は全然そんなレベルの話じゃなくて、良い意味で期待を裏切られて勉強になりました。
この本は、思想家の名前でいうと(私自身も昔結構好きで読んだことがある)「リチャード・ローティ」とか「ジョン・ロールズ」とかをベースにして、「言語分析哲学」的な発想でこの問題を細かく腑分けして解決していこう、みたいな感じのコンセプトです。
要するに、
「各人が考える正義(これを”善の構想”と呼ぶ)」はそれぞれ違ってもいいが、そういう「全く違った正義を持った存在同士」が同じ社会を共有している中でそこに生成されてくるような「共通了解」をこそ、本当の意味で「正義」と呼ぶようにしよう。
…みたいな感じで、それぞれの「各人が持つ善の構想」同士の優劣とか善悪には立ち入らずに、その上での議論の交通整理を徹底的にやっていくことで分断を超えていこうとする発想…なのかな。
とにかく、こういう「自分たち」の『外側』との「動的な調整プロセス」が自分たちの思想の中にビルトインされていなくてはならない…という発想の枠組みが自然にあるのはとても素晴らしいことだなと思いました。
アメリカが四年に一回大騒動になり、欧州は極右政党が入閣してない国の方が珍しいぐらいになり、欧米的価値に真っ向から反対している国々が経済的に大きな力をつけて・・・という時代には、「こういうモード」は当然の前提となって下の世代の思想を形成していくことになると思います。
朱氏の考え方は僕が提唱している「メタ正義」構想にものすごく似ていて、とはいえその「方法」は徹頭徹尾「言語哲学系」の明晰さベースであろうとしている感じの「大きな違い」も感じてなかなか考えさせられました。(Amazonが紹介してくれた出会いに感謝しなきゃですね。)
「狭義の知性万能主義」に対する東氏に代表されるようなチャレンジのあり方が、下の世代には「新しく統合された視座」に繋がっていく流れが生まれていけばいいですね。
9. おわりに:「アティチュード」も大事だぜ、という亜インテリからのメッセージを受け取ってください
なんか、今回ここで紹介した本以外も色々と「文系の学問」の本を読んだんですが、やっぱアカデミア内にいる「学者」の人はちゃんと言葉を共通了解に基づいて使っていて偉いなあと思いました(笑)
自分も昔はそういう議論を積極的に参照してたんですが、最近はもう徹底的に「自分の言葉」でしか話せない脳になっちゃって、まあそういうところはプロの人に任せたいですね。
そういう意味でも、田野氏の本での「色んな学者さんたちの議論」が、全体としては僕が望んでいるような方向にちゃんと広がっていっているのが概観できてそこは凄い良かったです。アカデミアを総体としては「信頼」していいんだな、と思えた。
自分はもっと野蛮な方法で、経済経営の現場感とか、色んな社会課題への具体的提案みたいなのとパッケージしつつ、アメリカの「ビジネス書」っぽい即物的な方向性で言論活動をしていって、「メタ正義構想」を”実際に普及させる活動”をしていければと思っています。
「野蛮な方法」というとイメージが悪いですが、たとえば朱喜哲氏の本は凄い面白かったけど、なんか凄い「正論」すぎてちょっと引いちゃう部分は自分にあるんですよね。
僕は経営コンサル業のかたわら、色んな人と「文通」しながら人生について考えるという仕事もしてて(ご興味があればこちらから)、そのクライアントには普通のビジネスパーソンから、エンジニアの人とかアイドル音楽の作曲家の人とか主婦の人とか、色々いるんですが、最近は学者さんも結構いてですね。
なかでも専門は精神科医だけど朱氏と同じく「言語分析哲学」を応用して論文を書いてるっていう先生と文通していた事があって、彼の議論を色々聞いてると、色々な社会問題について物凄い
「せ、正論や〜!」
…っていう答が出てくるんですよ。
そういう「言語分析哲学」的アプローチで問題を腑分けしていくことが問題解決の準備段階としてものすごく重要なテクニックになっていくだろうことは間違いない。
ただなんか、「正論」すぎて取り付くシマがないというか、「あらゆる問題は明晰に分析されて明晰に正しい結論を出されるべき」という言語優位な発想をものすごく強固に持っている人たちの間以上に「納得」を生み出すのは相当難しいだろうな、という気持ちになります。
で!
私みたいな「亜」インテリからアカデミア内のインテリの人の言いたいことは、最終的には「言っている内容」以上に「アティチュード(態度)」も大事だってことです。
私がよく「フェミニズムムーブメントは、私大医学部の入試差別を糾弾するときに、ちゃんと医療制度改革まで話をつなげるべきだ」って言ってるのはそこで、実際の人間社会においては「そこに踏み込む態度」があるかどうかで反応が全然変わってくるんですよ。
これは別にすぐに「医療制度改革の答」が出てこなくても全然良いんですね。むしろそんなすぐに答が出てくるわけがなく、その分野の専門家にちゃんと話を繋ぐことこそが大事で、「そこに踏み込む姿勢(アティチュード)」があるかどうか。
ただ無意味に「女を虐げたいからやってるんだろう」と思い続けるのか、「そこにあった事情」を迎えに行って一緒に解決する姿勢があるのか。
本当に社会を変えたかったら「Woke教の信者の内側」に普及するだけじゃダメですよね?その「外側」「社会の逆側」に話を伝えたければ、そこに踏み込む「態度」と「敬意」が必要なんですよ。
これは「もっと丁寧な言い方をしないと受け入れられないゾ」的ないわゆるトーンポリシングではなく、なんならちゃんと「本質的な敬意」があればもっと野蛮な言葉遣いをしたって全然OKになるはず。
「アティチュード」のレベルでちゃんと「敬意」がある振る舞いがデフォルトになっていけば、相互信頼のチャンネルが開いて、むしろ「トーンポリシング」なんて全然いらないというか、日常レベルでのマイクロアグレッションに対する異議申し立てなんてもっとバンバンやったっていいぐらいになるんですよ。
でもその「敬意と貢献の気持ち」がゼロな人が、人工的な規範を振り回してあそこが間違ってるここが間違っている日本は地獄だ、って言いまくって話を聞いてもらえるという発想自体が個人的には全く理解できません。
お前は「お客さん」なのか?って話になるでしょう。(これは別に今年医学部受ける18歳の女の子にそこまで考えろって話じゃなくて、大人になって社会経験もある学者さんならそこまでやってくれよって話ですからね)
そこで「狭いインテリサークルの外側」まで届く本当の敬意を持ちえるかどうかが、欧米におけるインテリとそれ以外の痛烈な分断や、人類社会全体で見たときの「欧米vsグローバルサウス」みたいな問題を超えて、日本が人類社会の分断を超える新しい旗を立てる道を歩めるかどうかの分水嶺となるでしょう。
最終的には、こないだ一橋大学の橋本先生↓との対談の最後にでてきたように、
・インテリの暴走とそれへのバックラッシュの分断で悩む人類社会に対して、
・オバマやサンデルみたいな欧米の穏健派知識人の問題意識ときっちり共鳴させていきながら、
・同時に「こんまりさん」が爆売れしたような文脈にパッケージして「オー!ファンタスティック!これが西洋の限界を乗り越える東洋の知恵なのね!」みたいなオリエンタリズム文脈で
・日本発のメタ正義構想を売り込めるようなポジションを取っていく
…というのが私の計画です。
橋本先生は、第三世界での紛争地での勤務経験も豊富なスーパー実務家教員なだけあって、「欧米の内側」と「欧米の外側」がガチでぶつかりあっている21世紀の「今」のリアリティを凄く理解していて、「ハダカの啓蒙思想の絶対性に引きこもる姿勢」を超えていかないといけないという確固とした意志があって凄い話していて楽しかったです。
「そういう世界認識がデフォルト」になっていく時代になっていけば、むしろ日本はちゃんと「党派性を乗り越える議論」ができるようになるはずなんですよね。
以下は私の本からの図ですが、
日本社会の「保守性」を、単なる「先進国の進んだ発想へ対応できない後進性」と捉えるのか、「欧米という特権階級の内輪のノリ」でなく「80億人レベルの人類社会のリアリティを代表している」と捉えるのか?というのが大きな分水嶺になるんですよ。
で、この「両側から押し込んでいる注射器」みたいなものが拮抗状態になればなるほど、ただ「敵側を否定して自分たちの絶対性に引きこもる」ロジックの有効性は徹底的に無意味になっていく。
そうなればなるほど、現実社会でちゃんと具体的なアクションを共有しようとするならば、「メタ正義的」なものにならざるを得ない状況に追い込まれていくはずです。
過去20年の人類社会は、「ハダカの啓蒙主義の傲慢さ」が人類の歴史上一番調子乗ってた時期みたいなところがあったので、日本国内がある種「右傾化」的な形でそれを防衛する必要はどうしてもあった(と私は揺るぎなく信じている)。
私は中学生ぐらいのときは「敬語」というシステム自体許せないような、「狭義の理性の勝利」を信じたいタイプの人間だったんですが、高校入って全国大会にその時点で出場回数が通算一位、みたいな部活の中心人物になって「そういうモード」で改革しまくったらメチャクチャ弱体化しちゃって、「そういうのだけじゃイカンのだな」って痛感したんですよね。
外資コンサルからキャリアを始めたあとも、結局本当にこういう「資本主義的な意味での合理性」をちゃんとエリートの内側だけでなく津々浦々まで浸透させるには、「ローカル社会側のナマの義理の連鎖」を敵視せずWin-Winに溶け合うように持っていかないといけないと思うことが沢山ありました。
結果として、若い頃はわざわざ肉体労働したりブラック企業で働いてみたりカルト宗教団体に潜入してみたりするフィールドワークをしたあと今は日本の中小企業相手がメインのコンサルタントで、実際にローカルな中小企業で10年で150万円ほど平均給与を上げられたような例もあります。
そういうのを安定的に津々浦々でやるには(つまりアメリカみたいに凄いところは超凄いけどスラムはほんと絶望的、みたいにしないためには)、
『狭義の合理性』を社会に実装していく段階で、そういう合理性から見て完全に『外側』に存在する『社会のナマの義理の連鎖』を対等な存在として尊重し、その上であくまで「狭義の合理性」の最も大事な部分は妥協しないで受け入れてもらうように持っていく
…こういう態度だと私は思います。
これは私の本とかでもよく言ってることですが、最終的に「実現した」段階で見てみると、頭の良い人が考えたことが9割5分ぐらいそのまま実現していても(笑)いいんですよね。でもそれが「ただ言ったとおりにやれ」で実現しようとするとその「残りの5%部分の大事なローカライズやブラッシュアップ」ができなくて、結果として「全く違うもの」になってしまうんですよ。
『そこに必要な双方向性』をいかに哲学的に位置づけるか?みたいなところが今回の東浩紀氏の「訂正可能性の哲学」なのだと私は読みました。
いわば、「非欧米」のリアリティを代表する存在として、「欧米的な理想の一番良い部分」と「人間社会の実相」との間のラストワンマイルを堀り抜くのが我々の使命だってことですね。
昨今の日本の政治的混乱は、「そういう風になってきたら本当の進歩へのチャンスなのだ」と10年ぐらい前から著書などで言ってきた状況そのもので、「予言者ですねw」ってたまに古い読者の人にいってもらえる状況になってきているので。
この「混乱」が既存の小賢しい党派性をすべてグッダグダの泥沼に叩き込むとき、消去法的に「自分と逆側の人」との対話を諦めなかった人間が主導権を取れる世界がやってきます。
堂々と進んでいきましょう。
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メチャクチャ長い(普段も長いけどさらに倍ぐらいw)文章をここまで読んでいただいてありがとうございました。
年末年始だし、多分ゲンロン社のコンテンツとか、田野氏の本とか読む人はこの程度へっちゃらに読めるだろうと信頼して書きました。
普段はあんまりこういう「アカデミア内における思想」分野には全然タッチせずに生きてますが、年末の時間に一度どっぷりとハマれて凄い有意義でした。自分自身がやってることを大きな文脈の中で捉え直すことができた。
2024年はまた新しい本も依頼されてますし、今年よりさらにコンサルよりも「言論家」寄りの仕事を増やしていければと思っています。
今後ともご愛読よろしくお願いします!
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つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2023年12月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。