『セクシー田中さん』原作者自殺について思う「ほんとうの優しさ」とは何か?

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(編集部より:この記事は1月30日時点で書かれた記事の転載です)

ちょっとあまりにもショックな事件だったので、予定を変更してこの話を書いてしまわないと他の仕事に手がつかないという感じでこのテーマで書きたいのですが。

『セクシー田中さん』というのは漫画原作の昨年の日テレのドラマで、同シーズンの視聴率一位になったそうですが、その展開について原作者と脚本家の意見対立が問題化していたドラマです。

ざっくりどういうことがあったかというと、

  • 原作者の芦原妃名子さんは、まだ未完の作品であり、大事なものだから、もし映像化するのであれば、原作者の自分の意志を最大限尊重してテキトーな改変などしないでほしい・・・という条件でOKを出した。
  • そういう「原作者側の意志」が脚本家(相沢友子さん)側にあまり伝わっておらず(あるいは伝わっていたのだけれども”まあいつものことだろう”ぐらいに軽く考えて)、どんどんと脚本家なりの作風に寄せていった展開になったために原作者の意見とぶつかることになった。
  • 原作者の芦原さんは再三「原作通りにやってほしい」と注文したが実際に脚本家の相沢さんと会うこともできず、結局ドラマの9−10話は原作者が直接脚本を書くことに。
  • 途中から作風が変わった?という形で視聴者の評価が荒れて、それで脚本家の相沢氏は「9−10話を作ったのは自分じゃなくて原作者」という釈明を自身のインスタグラムに投稿。(直接的でないにしろある程度原作者に対して批判的とも取れるトーンだった)
  • それに対して原作者の芦原さんが、「原作通りにやってほしいという条件でOKしたのに不本意な改変をされてやむを得ず自分でやったが、漫画の仕事と並行していたしテレビドラマ脚本は初心者だったのでうまくできなかったかもしれなかった。」という経緯について説明するブログがアップされる。(現時点では削除されていますが魚拓があります)
  • その後、SNSで相沢友子氏を攻撃する大きな騒動になり、その事で「攻撃したいわけじゃなかった」と芦原氏が追加で表明する事態に。

・・・・とここまではまあ「時々SNSを騒がせるトラブル」みたいな感じだったんですが、なんと昨日芦原妃名子さんが自殺したという衝撃的なニュースが・・・

ドラマ「セクシー田中さん」原作者・芦原妃名子さんが死去 明かしていた日テレ側との対立、脚本は8話まで相沢友子氏

ドラマ「セクシー田中さん」原作者・芦原妃名子さんが死去 明かしていた日テレ側との対立、脚本は8話まで相沢友子氏(1/2ページ)
昨年10月期に放送されていたドラマ「セクシー田中さん」(日本テレビ系)の原作者、芦原妃名子さん(50)が29日、栃木市内で死亡しているのが見つかった。自殺した…

なんか、ちょっと個人的には凄いショックで。そんなことで一人亡くなっていいの?みたいな。

このドラマのニュースが昨年後半話題になってた時からちょっと気になっていて、今回の騒動を見ながら月末の締め切りラッシュが終わったら漫画もドラマも一応見て、「どこがどう改変されたのか」を理解したいな、とは思っていたんですが。

昨日の夜とりあえず原作を既刊本一気に読んじゃったんですよね。(ドラマの方はhuluでしか配信されてないみたいですが、時間ができたら見てみようと思っています)

以下がアマゾンリンクですがめっっちゃ名作というか、凄い良かったです。一気に読んでしまったし、全体的に希望の溢れるお話だった。

セクシー田中さん

ただ、まだドラマ見てないからちょっと憶測も入ってるんですが、「今季の視聴率ナンバーワン」になった背景には、脚本家さんの力量というか、「それ専用の特有のスキル」が効いていた側面もあるかもな、というのは感じる内容だったんですよね。

端的にいうと、芦原妃名子さんの作品は「物凄く優しくて誠実すぎる」感じがして、直接届く範囲が限られてしまう感じがする。

一方で、まだ見てないものの、想像するにドラマ版より自分は原作の方が好きだろうなという”直感”はあるんですが、ある意味そうやって「薄められる」ことで広く届きやすくなった側面はありそうに思います。

でも、なんか、できれば

・「薄められずに」
・「優しい誠実さ」が
・「広い範囲の人に」
…まで届くのが理想じゃないですか。

世界はそういう方向に向かおうとしているとは思いますが、その点において原作漫画の「セクシー田中さん」は、ちょっと「平成時代風」の枠組みを感じるというか、「優しさと誠実さの罠」みたいなものにハマってる部分があるんじゃないかと思って、そういう話を書きます。

1. 「脚本家叩き」すればいいかというと…悪いのは強いて言えば日テレというより”業界の構造”。

まず漫画の内容とかに入る前に今回の事件についてどう考えたいかっていう話をしておきたいんですが、今SNSで「脚本家が原作者を殺した」みたいな話で凄い燃えてるんですが、なんというか、それはそれでまた余計な悲劇に繋がりかねないから辞めた方がいいと思うんですよね。

脚本家の相沢さんは他の原作付き作品でもある程度「自分色」に染めがちなところがあるらしく、元々恨みが溜まってたから余計に燃えてるんですが、脚本家には脚本家の事情があるし、実際色々と「売れっ子」状態になってるってことは少なくとも「テレビドラマという場にフィットさせるスキル」はある人なんだろうと思うんですよ。

今回のことで何か問題があるとすれば、「絶対改変しないでくださいね」と原作者が言ってるのに「はいはいわかりましたー」とか言いながら「まあいつも通り流れ次第でどうせ納得してもらえるだろう」みたいな感じに思っていた日テレとか制作者の人たち・・・という部分なのかなと思います。

でもね、なんかじゃあその「日テレのスタッフ」なのか「プロデューサー」なのかわかりませんが、そういう人が「ちゃんと気をつけて」いれば防げた問題なのか、というとあまりそうとも思えないんですよね。

テレビドラマじゃないですけど、僕も昨年この件とかこの件とかでテレビ的な場に出演してみたりして思ったことなんですが、テレビって衰退したとはいえ「視聴率1%=100万人以上が見ている」みたいな世界なので、ほんと「誰もコントロールできてない思惑のぶつかりあい」が常時渦巻いてる感じなんですよね。

「書籍のミリオンヒット」ってもうトップオブトップの話ですが、「視聴率1%」ってそう珍しくもないですからね。

で、そういう場では、例えば僕が出たような「討論番組」みたいなものでも、本番の20分前ぐらいにやっと完全な構成が定まって、皆直前まで必死にVTRやらテロップの編集をしている感じなので、事前に「こういう方向でお願いしたいです」みたいな打ち合わせになっていたものも半分ぐらいはドサクサに成り行き次第で着地するしかなくなっちゃってる感じなんですよね。

そういう場では、「担当者が誠実かどうか」みたいなレベルでどうこうなるもんでもないというか、そりゃたまにめちゃヒドイ担当者もいるにはいるんでしょうけど、大半は「善良で誠実なスタッフさん」が良かれと思ってアレコレやった結果、でもどうしようもなくって「成り行き次第」になっちゃうという感じなのだと思います。

だから、ある種の勧善懲悪ドラマの中に出てくる「悪徳プロデューサー」みたいな感じで、

「OK出していただけますか!ありがとうございます!はい!必ず原作通りにさせていただきますんで!(へっへっへ、こうやって契約取っちまえばこちらのものだぜ。どーせこいつテレビドラマの作り方なんてわかってねーだろうし、プロの俺たちがちゃんと料理してやっからよー)」

…みたいな存在がいたわけでもないんじゃないかな、と思うんですよね。

もっと「普通に善良に良いもの作ろうと思っている人たち」が、色んなステークホルダー同士のぶつかり合いの結果わけわからんことになっていった(そしてテレビドラマの視聴率という面ではある程度合理性もあった)というあたりが真相なのではないかと思います。

つまり、「日テレの担当者(や脚本家)が極悪だからこうなった」という話でもないし、元の告発ブログを読んでも芦原妃名子さんもそういう糾弾を求めていたのではないはずだ、ってことなんですよ。

だから諦めろって話ではないんですが、もし「原作者の意向を最大限汲んで映像化コンテンツを作るべき」みたいな話をするならば、例えばスラムダンク映画とか、ネトフリ版ワンピースとかみたいにそもそも原作者がガップリ直接噛み込めるような仕組みと予算を用意するとか、鬼滅の刃とか呪術廻戦とかのアニメ作品みたいにテレビ局でなくスタジオが出資するなどしてステークホルダーを減らして、キチンと握ってクオリティコントロールできる体制を整えるとか、そういう

「ビジネスモデル自体をそれ専用に設計する」

…ことが必要だよね、みたいな話に持っていくべきなのだと思います。

これは、航空機事故があったときに「パイロットの不注意だ、あいつの責任だ」って言って終わるんじゃなくてそういう「不注意が起きないようにする」という発想で仕組みを変えていくことが必要だよね、みたいなのと同じ話です。

2. とはいえ「テレビドラマ」って漫画よりも「関わる人数」が断然多い現象で、そこにある齟齬は真剣に考えないといけない

ただ、そういう「スラダン映画、ネトフリワンピース、鬼滅の刃、呪術廻戦」みたいなのは「本当に一握りの成功例」でしかなく、現状はある程度以上の人数にコンテンツをシェアしていくにはこの「テレビドラマという仕組み」自体を使っていかざるを得ない側面もあると思うんですね。

今、「昨季ナンバーワンドラマ」っていうからどれくらいの視聴率かなって調べたら最終回5.6%とかだったらしく、「今のドラマってほんと見られてないな」と思いますが、それでも人口割を単純に考えると「書籍のリーチ」とは桁がかなり違う大きさの現象ではあるわけですよね。

で、現時点で自分が思うところでは、やはりそこには「脚本家のそれ用のスキル」みたいなのも結構あったんじゃないかと思うんですよね。

その「脚本家のスキル」でそのコンテンツが「良くなった」かどうかは別問題としてあって、ある意味で「薄める」行為かもしれないが、「テレビドラマ」という場にフィットさせる事で広い範囲の人に届ける効果はあったと言っていいのではないかと。

とはいえ、自分はどっちかっていうと「原作の世界観を応援したい」とは思ってるんですが、

「この原作漫画のあまりにも優しくて誠実な世界観」自体に、そのままでは何百万人単位の人には届けられない宿命というかタガみたいなのがあるんじゃないか?

…みたいに思うところがあって、それをちょっと考えてみたいのが今回の本題なんですよね。

3. 原作漫画は「めっちゃ優しくて誠実なストーリー」

今回漫画原作読んで凄いいいなと思ったし一気に既刊本読んじゃったんで、「これこの続き永久に書かれることないんだ・・・」ってなった時の喪失感たるや、やるせない気持ちになりました。

ただ、読後感として、「優しくて誠実なストーリーすぎる」感じがあったというか、「平成時代の日本コンテンツ」特有の難しさがあるよなあ、みたいなことも思ったんですよね。

ちょっとここまで書いてみて、あまり「多くの人に合意をもってもらえる書き方」ができるかどうか自信なくなってきちゃってるんですが(笑)

ただ、大事なことだと思うので言葉を選んでちゃんと書きます。(あんま脊髄反射的に攻撃しないでくださいね!)

全体的に、主人公も、出てくるキャラクターたちも、めっちゃほぼ全員「凄い良い人」なんですよね。

「普通の意味で言う良い人」というよりも、漫画的にちゃんと「露悪的にエゴイストなところもあるキャラだよ」というように演出してあるんだけど、実体としては「凄い良い人で誠実な人」って感じなんですよ。

で、「あらゆる誠実なキャラクターがお互いに誠実に関わり合っていけば、皆幸せになっていくはずだ」みたいな世界観にどうしてもなってしまうんですが、「この世界観」自体が結構実体的に無理をはらんでいるというか、

「お互いが相手にとって誠実で優しい存在であると証明しあう」事に真剣になりすぎて、「本当に相手のためになる行為かどうか」みたいな判断が危うくなってる

…というような側面も、あるんじゃないか、と言うことを、個人的にはこういう話を読むたびに思っていて、「セクシー田中さん」の原作は結構典型的に「その感じ」がしたんですよね。

これはちょっと昔の韓国ドラマにも同じ傾向はあるんですよね。

以下記事は未だにかなり「あれは凄い良かった」と言ってくれる人がいる記事なんですが、

「今際の国のアリス」vs「イカゲーム」 日韓デスゲームドラマ比較から考える2つの「世界観」の違いと今後の日韓関係|倉本圭造
「カイジ」とか「今際の国のアリス」とか「日本コンテンツの王道ジャンル」だった「デスゲームもの」を大胆に再解釈した韓国ドラマ、「イカゲーム」が動画プラットフォーム「ネットフリックス」で世界的にものすごくヒットしているらしい。 ネットフリックスのコンテンツは、たとえば映画の場合の配給収入ランキングとかほど明確なランキング...

同じデスゲームジャンルを扱った韓国の「イカゲーム」と日本の「今際の国のアリス」の比較として、「イカゲーム」のキャラクターたちは「個人として誠実で正しい存在である」ということに集中しすぎてる感じがするんですよね。

一方で「今際の国のアリス」の方は「個人としての行為の正しさ」でなく「(個人の倫理観だけで見るとビミョーな部分があったとしても)結果論的に皆が助かるような行為」を選ぶことが善なのだ、みたいな価値観があって、どっちが良いというわけじゃないけどその「違い」が凄い印象的だなという話があって。

韓国ドラマでも最近はまた色んな新しい流れがあるんですが、少なくとも「セクシー田中さん」は、その「一昔前の韓国ドラマ」的な世界観を感じるんですよね。

全体的に「見た感じヒドい奴みたいだけど皆実はいいヤツ」ばっかり出てくるんだけど、突然特異点的に「笙野の父親」みたいな「徹底的に戯画化された”悪でしかない存在”」が出てくるところとかね。

なんというか、「無理解を乗り越えて最終的に完全に腹の底まで誠実に接しあう仲間たち」と、その外側にいる「何の留保もない巨悪」がスッパリと二分されてしまうような構造になってしまっている。

こういう「一昔前の韓ドラや平成時代の日本コンテンツ」の傾向は、徐々に以下のように転換してきてるトレンドはあるように思っています。

・「仲間内」が「腹の底まで完全に善」でなくてもお互いなんとか妥協点を見出して生きていこうとする方向へ
・そして「はじき出してしまった巨悪」に全部をおっかぶせて終わりにしないで、そこにある「だれのせいでもない構造的課題」に皆で立ち向かうようにする

これはさっきの話でいうと、

・「日テレが悪い」「脚本家が悪い」「原作者が悪い」っていう話にするのは、「個人が誠実に真心を込めて対応していればこんなことは起きなかった」という前提に立っているところに無理がある

・「個人に完璧な誠実さや真心を常に最高度に求める」ということ自体が非現実的であり、その先でどうすればこういう不幸が起きないかを「仕組み」として考えていく

…こういう構造変化は徐々に起きてきていると思います。

あと細かい話ですが、最後に主人公クラスのキャラクターが今まで積み上げた人間関係を全部ふっとばして『海外留学!』を究極の選択肢として選んで唐突に終わる感じとかも、「一昔前の韓ドラとか平成時代の日本コンテンツ」感を感じるんですよね。(意地悪く言えば、”海外”に行きさえすれば今までの世界観を丸ごとひっくり返せる魔法の扉があるんじゃないかと無邪気に考えられた時代の発想があるというか)

全体としてザツな分析をするとここにはいわゆる「父性の不在」みたいな問題があるのかなと個人的には思っています。

4. 「ギョーカイの事情」に薄められないために、この「世界観の強度」自体をあと一歩鍛えていかないといけないのかも

要するに、僕は「ギョーカイによって薄められたコンテンツ」と「元の原作漫画」で言ったら原作漫画の方が好きだと即答する人間だとは思うんですが、ただ「元の原作漫画の世界観」自体にどうしても「狭い」ところがあって、数百万人単位のリーチをしていくには足りない部分があるってことなんじゃないかと思うんですよ。

そして「足りない」部分を、「ギョーカイ人」が「薄める」ことで成立させるしかなくなってしまう部分がある。

芦原妃名子さんが「誰かを責めたいわけじゃなかったし、今でもどうしたら本当に良いものができたのか悩んでいる」みたいなことを生前書いておられましたが、

「そこ」

をもっと真剣に掘り下げていくことで、この「原作漫画の世界観」自体がもっと深く広い射程を持ったものになって、「ギョーカイ人が薄めて万人向けにする」みたいなことをしなくても数百万人にリーチできる作品になるんじゃないかとも思います。

原作漫画は徐々にそういう方向に向かう萌芽もあったように思うので、かえすがえすも「もう決して続編は書かれない」ことが残念でなりません。

5. 「みんな愛の歌にせっつかれて、与えるより多く奪ってしまうんだ」byキリンジ

なんかこういうテーマについて考えるたびに、僕はキリンジの名曲「Drifter」の歌詞をいつも思い出すんですよね。

なんかめっっっちゃ深い歌詞で、これ知ってからもう15年とか経ってると思いますが、年々「なるほどそういうことか」って思う気持ちが積み重なる名曲です。(歌詞リンク)

要するに、

「自分は相手を、相手は自分を、思いやって生きているかどうか」
「ちゃんと誠実に相手のことを思って行動しているかどうか」

こういうの↑を無理やり「お互いに証明」しあっていなくてはいけない、ということになると、色々と「本質的なその二人の存在」にとって不自然で余計なこともアレコレしなくちゃいけなくなって、余計に「与えるより多く奪ってしまう」結果になるんじゃないか、みたいな内容なんですよね。

「私たちは誠実に相手に尽くしてるよね!」と「証明」できる行動

と、

「一緒に暮らしているチームメイトとして適切で有益な行動」

って、勿論一致することもあるけど一致しないことも多くある。

前者ばかりをやろうとすると、後者がおろそかになって、結局「パートナーとの関係をうまく行かせて一緒に幸せになる」ことができづらくなってしまうこともある。

「一緒に幸せな生活を具体的に築いていく」ことでなく「お互い愛し合っているし配慮しあっている誠実な人間である事を”証明”しようとする」ことにエネルギーを浪費するのは無駄なのでは?

自分はそういう「人形の家」とか「逃げ水」のような虚しいものにはコミットできないが、確実に君と一緒にいて困難を協力して乗り越えていく事には喜んでコミットしたい。そういう自分と君は一緒にいてくれるよね?

だいたいこういう↑メッセージが籠もってる歌詞と歌で、作曲者の方は自身の結婚式で歌ったそうですけど、なんかコレ折に触れて思い出しては泣きそうになります。

ぜひ一度歌詞を眺めながら聞いてみていただければと。「お金が全てだぜと言いきれたならきっと迷いも失せる 」っていう衝撃的な歌詞の部分も含めてめっちゃ名曲だと思います。

私は経営コンサル業のかたわら、色んな個人と「文通」をしながら人生とか社会とかアレコレ考える…という仕事もしていて(ご興味があればこちらから)、そのお客さんには多種多様な職業とほんとうに”老若男女”、下は20代から上は60代まで、もちろん既婚者も未婚者もいるんですが…

長い間色んな個人と話をしてきて、「長い間既婚でまあまあうまく行ってる」人は、ほとんど一人残らず実体としては上記の「Drifter」のような関係性をパートナーと結んでるところがあると思います。

なんかこう「相手のことを思いやってることを”示す”ために無理をする」とかが10年20年続くはずはないんですよね。汝、愛(神)を試すなかれ(マタイによる福音書)。

「自分自身であること」をお互いやりながら、それがちゃんと相互に互恵関係になるようにお互い調節しようとしていくことが大事なのだというか。

永久に「本当の理想」をペンディングし続けることはできないわけで、「ありもの」をちゃんと大事にして積み上げて本当の自分の人生っていうのを作っていかないといけないわけですよね。

「平成時代のコンテンツや昔の韓流コンテンツ」が風呂敷を大きく広げて探求してきた事にも当然意味はあったけど、そこで見えてきた課題に向かって「どうやったら風呂敷をたたむことができるのか」を皆で考えるべき時代になっているということなのかと思います。

そういう転換の流れの中で、多くの人々の情念の奔流の中に巻き込まれて亡くなってしまった芦原妃名子さんのご冥福をお祈りします。

つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。


編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2024年1月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。