「そういう目的」でやってるんだろうな
日本テレビが雲仙普賢岳火砕流に関し投稿、コミュニティノートを付けられ削除
日本テレビがX(旧Twitter)上で雲仙普賢岳火砕流に関し投稿しましたが、コミュニティノートを付けられたためか削除しています。
元の投稿文の内容は以下でした。
雲仙普賢岳の大火砕流から33年
1991年6月3日に長崎・雲仙普賢岳で大火砕流が発生、報道関係者や警察、消防、海外の火山学者など多くの人が犠牲となりました。
長野・御嶽山の噴火からも、まもなく10年です。
火山噴火はいまだに完全に予知することはできません。#噴火 #火砕流
この投稿に関しては大要
「報道関係者が亡くなったのは危険を知らされて警告されながら取れ高のために近づいた結果」
「消防団員が亡くなったのは報道関係者が住民避難で人が居なくなった住居に侵入して電気窃盗する事案が発生したために戻らざるを得なかった人が居たからだ」
といったようなツッコミが相次いでいました。
日テレが雲仙普賢岳大火砕流に関して再UPの謎:またコミュニティノートが付けられる
ところが、日テレが雲仙普賢岳大火砕流に関して謎に再UPしていました。
が、またコミュニティノートが付けられています。
コミュニティノートが本来の目的を逸脱している場合には表示されなくなるため、前の投稿も削除をする必要が無いはずです。
報道関係者らの行動による死亡者が多かった「人災」の側面を知られたくない、別の情報によってその認識を覆い隠したい、というのが目的なのではないか?と思わざるを得ません。
日本テレビの取材スタッフが電気窃盗のため消防団員や警察官が死亡:長崎新聞の太田一也証言
【インタビュー・上】元九州大島原地震火山観測所長 太田一也さん 「悔やまれる 人的被害」 反省残る 報道陣への遠慮 雲仙・普賢岳大火砕流30年 | 長崎新聞
-報道陣の取材行動、責任について。
タクシー運転手4人を含めた報道関係の死者20人が、当時の撮影場所だった定点周辺にいた。消防団員は定点より400メートル下の北上木場農業研修所を活動拠点にしていたが、危険性の高まりから、5月29日、島原市災害対策本部を通じた私の退去要請を受けて300メートル下流の白谷公民館に退去していた。
しかし、日本テレビの取材スタッフが、住民が避難して無人となった民家の電源を無断で使用する不祥事が発覚。消防団員は6月2日、留守宅の警備も兼ね、同研修所に戻ってしまった。亡くなった警察官2人についても、報道陣らに対する避難誘導のため定点に急行。戻る途中に同研修所前で火砕流にのみ込まれた。
地元・長崎新聞の記事では、日本テレビの取材スタッフが避難地域の無人家に侵入した電気窃盗事案が発生したために消防団員と警察官が戻ることになり、その結果、火砕流にのみ込まれた、という主張が掲載されています。
これは雲仙普賢岳噴火回想録の著者でもある元九州大島原地震火山観測所長の太田一也氏の証言です。
実際、43名の死亡・行方不明者のうち、20名が報道関係者(報道関係者を載せたタクシー内の運転手含めた4名を含む)、消防団員が12名、警察官2名、一般人6名、火山研究者3名が犠牲者となっており、犠牲者の大半が報道関係者の行動に起因したものと言えるような実態が報告されています。
雲仙普賢岳火砕流の犠牲者を語るに当たって、その中核としてこの要素は無視できないでしょう。にもかかわらず、あまりにも無視されてきた。
同様の認識は地元民の間では根強いということが内閣府にある報告書でも書かれています。
内閣府の災害教訓の継承に関する専門調査会報告書では過剰なスクープ合戦、キー局の復興への無関心が指摘
報告書(1990-1995 雲仙普賢岳噴火) : 防災情報のページ – 内閣府
取材マナーの問題がひいては消防団員の死につながったとする地元の論調の中、住民の間にはマスコミに対する怒りと不信感が渦巻いていた(消防団がいったん下流に詰め所を下げながら、6月2日再び上木場地区に戻ったのは、電気盗用などマスコミのモラルの欠如のせいだと考えている人は今も多い)。
内閣府の災害教訓の継承に関する専門調査会報告書では、地元メディアとキー局との温度差についても言及があります。
こうした中、翌日になってわかったことだが、5月24日に初めて火砕流が発生した。発生の瞬間から一部始終をカメラに収めたFNN取材団の映像は、スクープとして大々的に扱われた。ただし、この時点では火砕流であるという認識はなく『溶岩の崩落』という表現だった。研究者の危機感とは裏腹に、火砕流先端部分まで踏み込むなどマスコミの取材は過熱していった。KTNの場合、24日午後、研究者グループの調査に同行するうち偶然に火砕流の先端部分に遭遇し撮影したが、キー局から送られてきたFAXの「圧倒的勝利おめでとう」の言葉が、過剰なスクープ合戦を物語っている。
過剰なスクープ合戦により危険への備えが疎かになっていたことが示唆される内容。
さらに、取材モラルの欠如以外にも報道姿勢そのものに疑問が投げかけられています。
6月3日の火砕流惨事以降、特に犠牲者の遺族や関係者が多かった避難所には、「報道関係者立ち入り禁止」の張り紙が張られた。マスコミに向けられた被災者の厳しい目にどう向き合い、信頼を回復していくか、マスコミ各社はそれぞれに模索した。
しかし、民放の場合、その意識は地元ローカル局にはあっても、全国レベルでは難しかった側面もあった。民放労連の匿名座談会(『雲仙・普賢岳の警告』)からいくつかの声を拾ってみる。「我々はこれからもこの地に腰を据えて、ここの住民と一緒に仕事をしていかなければいけないんですから」、「被害を受けているのは島原市や深江町だけでなくて、島原半島全体、ひいては長崎県全体なんです。観光客は激減していますから。ですから住民の立場に立てば復興こそがキーワードなんですが、そういう話にはキー局は全く関心を示さない」、「いまもって火砕流ですからね、(キー局が)求めているのは」。
地元民にとっては復興が重要なフェーズになっても、「火砕流」というフォトジェニックな絵面を優先的に求めるキー局という構図があったと指摘されています。
こうした構図は現在でもないだろうか?
この時も「政府の施策・対応不足」に報道の重点がシフトしたことが報告書でも書かれていますが、ある種の責任転嫁・叩きやすい相手を作ってガス抜きをするといった報道側の思惑によって、地元メディアも迷惑をこうむるという事態が、令和6年の能登半島地震でもありました。
雲仙普賢岳火砕流の「人災」は今でも省みるべきものが多いと感じます。
編集部より:この記事は、Nathan(ねーさん)氏のブログ「事実を整える」 2024年6月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「事実を整える」をご覧ください。