世の中を生きづらくする人の正体

黒坂岳央です。

「社会はドンドン生きづらくなっていく」という意見をよく見る。本当だろうか?テクノロジーは進化し、無料か格安で便利なサービスを享受できる現代社会は生きやすくなったと感じる部分は多い。

確かに以前に比べて、生きづらくなったと感じる部分はある。そして世の中を生きづらくする人の正体が見えてきた。一言でいうと「ノイジー・マイノリティ」、つまり少数派の声がでかい一派である。

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生きづらくするのはいつも少数派

「生きづらさ」とは端的にいえば、自分の欲求を押し殺し社会や相手に迎合せざるを得ない圧力のことである。つまり、のびのび自由に生きることを許さない空気感だ。

たとえばタレント業についていえば、ごく少数のアンチが彼らにとっての生きづらさの正体になる。どんな人にでもアンチがつくのは周知の事実だ。問題はそれが常に少数であることだ。1万人のファンがいても、1人とか2人のアンチからの執拗な粘着に心折られて活動を休止するというニュースは繰り返し流されている。1万人の肯定より、たった1人の否定で自分らしさを曲げることになり、苦しみ、そして姿を消していく。

また、社会を生きる上でも同じである。昨今、都心の公園にはあまりに禁止事項ばかりで公園が「実質的に何も活動できない空間」になっていることがある。大声禁止、運動禁止、ボール遊び禁止となれば、ではこの公園とは一体何をするための場所なのか?という話だ。こうした禁止事項を増やす原因は、一部のノイジー・マイノリティであることは明らかだ。おそらく、役所にうるさく苦情を入れ続けたことで、大多数の住民が公園を使えなくなり、生きづらさを作り出す。

そして昨今で言えば「多様性」である。誤解のないようにいっておきたいのは、多様性自体は重要であり、自分も多様性のある学校や会社に所属していた時期があるので多様性の重要さは理解している。様々な文化や価値観のミックスが新たなシナジー効果を生み出す、このことは肌感覚でわかる。しかし、本来の多様性とは多数派が少数派を受け入れるために「私達は多様性を尊重します」という態度で配慮するべきではないだろうか?

問題は少数派側が「多数派は我々を受け入れよ」と自分たちの主義・主張を半ば無理やり押し通して、結果として多数派に多大なる配慮と生きづらさを醸成することだ。

世の中を生きづらくするのは、常に少数派の声がでかい一派なのだ。

話を聞く必要はない

こんなことをハッキリいえば、強い反発もあるかもしれないが正直、ノイジー・マイノリティは歓迎されない存在だと社会全体で認識するべきだろう。際限なく配慮し続ければ、全員で仲良く不幸になる。誰にでも耳を傾けるのではなく、一線を超えた感覚の持ち主の話にはそもそも傾聴する必要はないのだ。

役所に苦情を言い続けて公共施設を使いづらくさせる例から分かる通り、こうした人種の特徴としては相手が折れるまで際限なく騒ぎ続ける。そしてその目的は最大公約数的に社会を便利にするための進言ではなく、相手や多数派を力付くで屈服させることが目的化している。平和的な対話など望むべくもない。

マイノリティであることに罪はないし尊重されるべきだ。しかし、「ノイジー」であることは問題を起こす。

たとえば学校で一人の保護者が「うちの子は給食を食べるのが遅いので、他の子より食べる量を減らして構いませんか?」と理解を求めるのは問題ない。だが、「うちの子の食べる速度にあわせて、給食の時間を今の二倍に増やしてください」というのはおかしな話ということになる。しかし、このようなぶっ飛んだ形で権利を主張する人は、恐ろしいことに世の中に実在するのだ。

たった一人の生きやすさのために、その他全員の生きづらさをコストとして支払う。こんなものは個性の尊重でもなんでもなく、人権や多様性を盾にした単なる暴力でしかないだろう。

少数派を尊重するのは、あくまで社会全体の生きづらさや利便性を著しく損なわない前提あっての話だ。そんな当たり前のことが忘れられ、人権や多様性を武器に我慢させられているというのが生きづらさの正体である。今我々が感じている生きづらさとは、配慮した側からの逆襲なのだ。

 

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ビジネスジャーナリスト
シカゴの大学へ留学し会計学を学ぶ。大学卒業後、ブルームバーグLP、セブン&アイ、コカ・コーラボトラーズジャパン勤務を経て独立。フルーツギフトのビジネスに乗り出し、「高級フルーツギフト水菓子 肥後庵」を運営。経営者や医師などエグゼクティブの顧客にも利用されている。本業の傍ら、ビジネスジャーナリストとしても情報発信中。