競技の公平性・安全性の問題
アンジェラ・カリーニvsイマネ・ケリフ
パリオリンピック女子ボクシングにおいてイタリアのアンジェラ・カリーニ(Angela Calini)とアルジェリアのイマネ・ケリフ(Imane Khelif)選手の試合が行われ、46秒でカリーニ選手が棄権をしました。
カリーニは試合後に拳を合わせようとするケリフを二度無視し、リング上で号泣している様が映されました。
こうした異常な経過を辿った試合であったため、相手のケリフ選手の遺伝的特徴が男性的だという指摘や、2023年3月に女子ボクシング世界選手権でIBAが同選手について資格を満たしていないとして排除していたことから*1、大きな議論を呼んでいます。
本件については英語媒体の大手紙でも煽情的な記述が多いのですが、比較的落ち着いた内容で背景情報も書いてあるインディペンデントの記事を置いておきます。
イタリアのメロー二首相「男性の遺伝的特徴を持つ」
カリーニ選手の棄権を受けてイタリアのメロー二首相がケリフに関して「男性の遺伝的特徴」を持つ選手は女性として競技に参加するべきではないと述べ、バッハ会長と競技の公平性について話すまでに至っています。
国際ボクシング連盟=IBAと国際オリンピック委員会=IOCが声明
また、本件に関して議論が巻き起こっていることを受けて、国際ボクシング連盟=IBAが2日連続で声明を出し*2*3、「IBA は、アスリートの安全と健康を第一に考え、男女間のボクシング試合を決して支持しません。」と主張しました。
それに呼応する形でParis 2024 Boxing Unit(PBU)と国際オリンピック委員会=IOCも連名で声明を出しています。
なお、IBAはIOCから19年に統括団体としての資格停止処分を受け、23年6月に承認取消処分を下されたため、今大会の競技はIBAの管轄を外れて実施されています。
トランスジェンダー問題ではない:XY染色体を持つ性分化疾患=DSD?
勘違いが多いですが、本件は「トランスジェンダーの問題」ではありません。*4また、「性同一性障害の話」でもありません。*5
ケリフ選手の法的性別は女性であり、女性として育てられ、アルジェリアは性別変更の仕組みが無いため「元男性が女性として参加している」という事ではありません。
実は、IBAは過去の世界選手権で同選手と台湾のリン・ユーティン選手を同じ理由で排除した際には、その詳細理由や検査手法を明らかにしていません。カリーニ戦に関する騒動を受けて2024年7月31日に出されたIBAの声明では以下書かれています。
Point to note, the athletes did not undergo a testosterone examination but were subject to a separate and recognized test, whereby the specifics remain confidential. This test conclusively indicated that both athletes did not meet the required necessary eligibility criteria and were found to have competitive advantages over other female competitors.
注目すべきは、選手たちはテストステロン検査を受けていないが、別途公認の検査を受けており、詳細は秘密にされているということだ。この検査により、両選手とも必要な資格基準を満たしておらず、他の女性選手よりも競争上の優位性があることが判明した。
「テストステロン検査は受けていないが他の女性選手よりも競争上の優位性がある」
これは一体なにを指しているのか?
厳密には現時点でも「不明」と言わざるを得ませんが、昨年に「IBA会長のウマル・クレムレフがタス通信に語ったところによると」、として「女性のふりをした選手はXY染色体を持っているという検査結果に基づいて除外された」と書かれた記事を根拠に、ケリフはXY染色体を持っているという前提の下、同選手は性分化疾患=DSDであり、それによるアドバンテージを受けているのだ、という話が形成されているのが現状です。*6
Olympic Boxing Is Having a Fight About Gender | TIME
※追記※
BBCが8月に入ってからIBAの現会長へのインタビューで以下報じています。
【パリ五輪】ボクシング女子の性別騒動 アルジェリア選手に「謝りたい」と途中棄権のイタリア選手 – BBCニュース
IBAのロバーツ会長は1日、BBCのダン・ローアン・スポーツ担当編集長とのインタビューで、XY染色体が(ケリフ選手と林選手の)「両方のケース」で確認されたと述べた
会長は、「異なる染色糸が関わっている」ためIBAはケリフ選手を「生物学的に男性」だと言うことはできないとした
※※追記終わり※※
性分化疾患とは、かつては間性=インターセックスと呼ばれていたものです。*7
現在では「性染色体、性腺、内性器、外性器のいずれかが非定型的な先天的体質」を指す用語です。ただ、「第三の性」なるものではなく、男性と女性のどちらの要素が強く出ているかどうかの話です。
その中でも「46,XY DSD」は、精巣の分化異常や、精巣形成は正常だがアンドロゲンの作用不全のために幅広い男性化障害を生じる病態であるとされています。ただ、この場合の身体状況もケースバイケースです。*8
「Y染色体や精巣を持ってるから男性では?」という誤解も多いので、以下を参考として置いておきます。
IOCのルール上は適正:統括団体に任せていたがIBA排除で基準が不明
勘違いが多いですが、ケリフ選手は「検査をすり抜けた」のではなく『IOCのルール上は適正』であるとされています。
ケリフ、リン両選手は東京五輪にも出場していましたが、IBAが失格にしたのは「2022年にイスタンブールで開催されたIBA女子世界ボクシング選手権中に実施されたテスト」「2023年にニューデリーで開催されるIBA女子世界ボクシング選手権中に実施されるテスト」なので、IBAにおいては、その後のルール変更があったということです。
IOCでは「女子競技に出場するにはテストステロン値10nmol/L以下」という基準がありましたが*9、2021年11月にポリシーが改訂され*10、法的拘束力のあるものではなく判断を各競技の統括団体連盟に委ねる方針とされました。それにより、IOCが事前に提示したテストステロン値での一括判断が全競技において行われるわけではなくなりました。*11*12*13*14
例えば、陸上競技では5nmol/Lを女性競技参加のためのテストステロン値の上限基準としています。
これに対して、五輪のボクシング競技においては、IOCがIBAを監督団体の認定を外したために、Paris 2024 Boxing Unit(PBU)が管理監督をしている形になっています。
さて、以下はケリフ選手がXY染色体を有する性分化疾患であるという仮定で書いていきます。
男性思春期のアドバンテージを得た者と女子ボクシング競技の公平性
この話は「性別の決定の仕方」ではなく「女性競技の公平性」の話として論じるべきです。性別が女性だから女性競技に参加資格があるor男性だから資格がない、という論じ方は、既に性自認の自己申告で性別変更できる国の存在があることからも、意味がありません。
また、「女性競技に参加可能な適切なテストステロン値の上限」という観点のみではもはや必要な考慮ができない状況になっています。なぜなら、競技前にテストステロン値が下がっていても、「スポーツ生理学的には男性としての思春期を経た者」の女性に対するアドバンテージは無視できない、という知見が得られているからです。
英国スポーツ評議会平等グループSCEGの報告書では、「テストステロン抑制の有無にかかわらず平均的な女性と、平均的なトランスジェンダー女性や非バイナリーの人とでは、体力や体格に違いがある」として、トランスジェンダー女性(生物学的男性)の女性スポーツへの参加に関し、激しい競争が存在するジェンダーの影響を受けるスポーツにおいては、公平性や安全性のバランスが取れない、ということを結論付けています。
英国スポーツ評議会「トランス女性は女性より優位、公平性・安全性を欠く」報告書を公表 – 事実を整える
この事はXY染色体を持つ性分化疾患女性についても考えるべきでしょう。
したがって、【男性思春期のアドバンテージを得た者と女子ボクシング競技の公平性】について考えるべきことになります。この際、他の競技との違いを十分に意識するべきでしょう。
例えば、「女子バスケで2m20cmの巨人症のチャン・ツーユーが居るんだから、XY染色体持ちの性分化疾患女性もいいだろ」という論調があります。
これは競技特性や競技コミュニティにおける公平性・安全性に対する考え方の形成の仕方の違いを無視したものだと言えます。
バスケットボールは、身長の大きさに対して「開かれた」競技です。だから、巨人症のメリットを受けても競技としての公平性と安全性は毀損されないものとして扱われています。
これに対して、格闘技は細かい体重設定による階級があります。人の身体を直接殴打する競技、相手の身体にダメージを与えることが正当化されている競技において、体重によって強さが変わることが認識されているからです。*15
しかもボクシングは、投げや関節技が無いため、最も誤魔化しが効きません。体重によるアドバンテージが大きく作用する競技と言えます。それだけの細かい条件を揃えるのがボクシングにおける公平性の密度と言えます。
ケリフ選手の事案は、このような機微な文脈において考えられなければなりません。
陸上競技のセメンヤや重量挙げのハバートは(ハバートはトランスジェンダーの事例だが)、コリジョンスポーツでは無かったがためにある種等閑視されていた面がありますが、ボクシングは違う。
まとめ:性分化疾患は日本では戸籍法113条による戸籍訂正が可能な例も
ちなみにですが、性分化疾患の者は、日本においてはケースバイケースになりますが、戸籍法113条による錯誤による戸籍の訂正によって本人の社会生活上の適合性を考慮した上で性別変更が可能になる場合があります。これは性同一性障害特例法ができる前から行われていたことで、現在でも性分化疾患の者の性別変更は特例法ではなく戸籍法113条に基づくものとして法整備されています。*16
この点から考えると、イマネ・ケリフ氏は、【本来的には日本で申告した場合に男性に性別変更できるような状況なのか?】という疑問は、どうしても出てきます。
つまり、本当は性別を男性とすべき身体状況だったのに、出生時から女性とされていてずっとそのままで来たのか?という問題。プライバシーに深く関わる話のため、明らかにならないことかもしれません。
さらに、これは本人にとっては悲劇であり、何ら帰責性の無いものかもしれません。
しかし、競技の公平性を考える上では個人の悲劇性は捨象されなければなりません。
*1:そして、「アルジェリアメディアによるとテストステロン値が高かったとされている」という報道も為されていたため
*2:Statement made by the International Boxing Association regarding Athletes Disqualifications in World Boxing Championships 2023 – IBA
*3:IBA reaffirms the position and removal of boxers from all events, aims to protect female boxers, and condemns both the International Olympic Committee and World Boxing for allowing ineligible athletes to compete – IBA
*4:国連のトランスジェンダーの定義が変わっている件:性別不合・身体違和も無し、アンブレラタームの地位はクィアへ – 事実を整える
*5:ケリフがトランスジェンダーか?という話には立ち入らない。それを論じると多分に本人の意思の問題が介在するので。IOCは同選手をトランスジェンダーとして扱っているわけではないので、ここではあくまで「問題」把握としての実態について述べている。
*6:2024年の現時点でもタス通信社に語ったとされる会長の弁が根拠として報道されている⇒https://archive.md/hhp6H
*7:「半陰陽」という語もあるが、これは間性の中でも一部の病態を表すという理解がある
*8:アンドロゲン不応症患者の身体発達の状態が写真付きで分かる論文として⇒ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/jsgoe/25/2/25_2_366/_pdf
*9:IOC Consensus Meeting on Sex Reassignment and Hyperandrogenism
November 2015
*10:一般に「トランスジェンダーポリシー」などと呼ばれる場合があるが、名称はそうではない。*11:IOC-Framework-Fairness-Inclusion-Non-discrimination-2021
*12:「IOC によるトランスジェンダー選手の参加規定」(p.17)に関する追加情報
*13:IOCがトランスジェンダーなどの選手の国際大会への参加資格についての新指針を発表 | Magazine for LGBTQ+Ally – PRIDE JAPAN
*14:オリンピック委員会(IOC)がトランスジェンダー選手参加の新しい骨組みを発表 – FRONTROW
*15:細かい体重設定の理由は、カテゴリを多くした方が勝者が多くなり競技人口も増えるという思惑も無いではないだろうが。
*16:利害関係人からの申請が必要。
編集部より:この記事は、Nathan(ねーさん)氏のブログ「事実を整える」 2024年8月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「事実を整える」をご覧ください。