プーチン大統領のモンゴル訪問をめぐり、「モンゴルはロシアに逆らえない」といった批評が多々なされているようだ。それはもちろん全くその通りだろう。エネルギー依存度が著しく高く、あらゆる面で利害関係の度合いが甚大だ。
ただ、そのような評価では、今回のプーチン大統領の訪問が、モンゴル側からの招へいであった事実を看過しがちになるように思える。決してプーチン大統領が無理やりモンゴルに無理やり押しかけたわけではない。
プーチン大統領招へいの理由は、「ハルハ川戦争(ノモンハン事件)」85周年記念式典への出席だ。これはモンゴルで行う必要があり、5年に一度のロシアの国家元首の出席は慣例であった。もちろん式典を中止したり、別の形で開催したりすることも、不可能ではなかったはずだ。
だが、フレルスフ大統領は、あえてICCにおける逮捕義務から逸脱してでも、ロシアとの紐帯を確認する式典の実施にこだわった。それはやはり式典それ自体がそれだけ大切だったからではないだろうか。
日本では「ノモンハン事件」として知られる「Battles of Khalkhin Gol(ハルハ川戦争)」は、日本ではその歴史的意味が看過されがちであるように思われる。もちろん歴史家の方々は熟知されていらっしゃるわけだが、一般の人々の間での認識度が低い。日本人が日ごろからよく交流している欧米諸国の人々の間での関心も低い。そのため、モンゴル人とロシア人が持つ「ハルハ河戦争」への思い入れを、日本人が理解していない、あるいは都合よく忘れ去ってしまった可能性が強い。
モンゴル人にとって「ハルハ川戦争」は、国家の独立の物語の一部だ。ロシア人にとっては、ファシストがユーラシア大陸の東側で侵略的拡張を続けるのを食い止めた英雄の物語だ。
日本でこの戦争が「事件」と呼ばれているのは、1939年当時の呼称が残存しているためである。柳条湖事件をはじめとして、1930年代に満州周辺で大日本帝国の陸軍がかかわった戦争は、「事件」とか「事変」とかと呼ばれた。明治憲法において「統帥権」を持つとされた天皇の裁可を得た正式な宣戦布告がないまま行われた一連の軍事行動を「戦争」と呼べなかったため、片っ端から「事件」や「事変」となった。
しかし1939年5月から9月にかけて、日本とソ連がそれぞれ7万人前後の兵力をもって激突し、それぞれの側で1万人前後の戦死者が出たとされる「事件」を、「戦争」と呼んではいけない理由はない。「事件」と呼び続けるのは、まずはその軍事衝突の規模を誤認させかねない。
もっとも戦争の経過の細部については、本格的な歴史検証が冷戦終焉後まで持ち越されたところもあり、いまだ明らかではないようだ。概ねソ連が優勢だったとして、それはどれくらいだったのかについては歴史論争があるようである。
しかしここでは、そうした歴史の細部については立ち入らない。形式的にはモンゴルと満州国の間の国境紛争であった「ハルハ川戦争」は、実質的にはそれぞれの後ろ盾であるソ連と日本との間の戦争であった。
大日本帝国陸軍は、ソ連成立後の「シベリア出兵」をへて、1935年勃発の「満州事変」以来、明白に「北進」路線をとっていた。ソ連は、それを自国の国境においてだけでなく、モンゴルと満州の国境線においても、押しとどめなければならない立場にあった。
当時の日本は、米英との対立を深め、ドイツと接近していた。そのためソ連の脅威に共同で対抗することを強調した。1936年に成立した日本とドイツの間の条約関係は、「日独防共協定」だった。この流れの中で、ソ連に挑戦する姿勢で陸軍は拡張政策を取り続け、遂に1939年に国境地帯で武力衝突を起こし、「ハルハ川戦争」に至った。
ところがこの「ハルハ川戦争」中に起こったのが、1939年8月23日の「独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)」である。反共ファシズムのナチス・ドイツと共産主義インターナショナル=コミンテルンのソ連が、手を結んだ衝撃は大きかった。
当時の総理大臣は平沼騏一郎だったが、「今回帰結せられたる独ソ不侵略条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」との声明を発出して、8月28日に内閣総辞職したことは、よく知られている。
ドイツのリッベントロップ外相は、日独同盟を推進していた当時の大島浩駐独大使に対して、「ハルハ川戦争」の仲介を申し出るとともに、ゆくゆくは日本、ナチス・ドイツ、イタリアの三国同盟にソ連も加えて四国同盟に発展させたいとの構想を語ったとされる。
前提としていた国策の方針を見失った「ハルハ川戦争」を戦っていた日本軍は、停戦を余儀なくされた。当時の駐ソ連大使の東郷茂徳(現在「親露派」評論家として著名な元外交官の東郷和彦氏の祖父・ちなみに東郷和彦氏の父の東郷文彦氏も事務次官まで務めた外交官)が交渉を進め、9月15日に「双方とも現在占拠している線で停戦」での停戦合意が成立した。
すでに9月1日にドイツがポーランドに侵攻していた。ソ連は、「ハルハ川戦争」停戦合意成立の2日後の9月17日に、ポーランドに侵攻を始めた。独ソ不可侵条約締結時の秘密協定に基づいて、ポーランドは、ドイツとソ連によって分割され、消滅した。
ドイツのポーランド侵攻の2日後の9月3日に、イギリスとフランスがドイツに対して宣戦布告した時をもって、「第二次世界大戦」の開始とするのが、正しい歴史の理解として定着している。しかし実際には、「第二次世界大戦」なるものは、歴史家が作り出した一つの概念でしかない。西欧中心主義の歴史観と言ってよい。
現実の歴史は、そのように単純に進んでいるものではない。少なくとも「ハルハ川戦争」は、欧州戦線の動向と密接に結びついていた。「ハルハ川戦争」の停戦がなければ、ソ連がポーランドに侵攻できていたか、わからない。スターリンが日本との停戦を急いだのは、「独ソ不可侵条約」の果実を、欧州で獲得したかったからだ。
狼狽していた日本は、ドイツの破竹の進撃を見て、気を取り直して、翌1940年9月27日に成立する「日独伊三国条約」の枢軸国の同盟体制をあらためて確立する。ドイツの前例に従い、ソ連との間では、1941年4月13日に締結した中立条約を結んだ。
そこではソ連と日本の相互不可侵および一方が第三国に軍事攻撃された場合における他方の中立だけでなく、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵をソ連と日本のそれぞれが尊重する声明書が取り交わされた。大日本帝国の「北進」政策は、「ハルハ川戦争」をへて、「日ソ中立条約」において、終わりを迎えた。その結果、モンゴルの主権国家としての独立が確証された。
ドイツがソ連侵攻を始めたのは、1941年6月22日、つまり日ソ中立条約の2か月後のことであった。「四国同盟」の構想は破綻し、ソ連はイギリスとの同盟に向かった。しかし「ハルハ川戦争」と「ドイツのソ連侵攻」の間に成立した日ソ不可侵とモンゴル独立尊重の体制は、崩れなかった。
もしドイツが「独ソ不可侵条約」を締結しなかったら、「ハルハ川戦争」は終わらず、モンゴルの独立国としての地位も危うかったかもしれない。しかしそれも、ソ連が「ハルハ川戦争」で日本の「北進」政策を許さず、モンゴルと満州の国境で、日本を止めたからだ。
21世紀の今は、日本よりも中国の存在の方が大きい。1922年のモンゴル人民共和国の成立は、中国軍を追い払ったソ連赤軍によって達成されたものだ。ロシアの存在がなければ、モンゴルの独立は、中国に圧倒されていってしまう。ロシアと中国双方への配慮は、モンゴルにとって必然である。
モンゴルは、ロシアと欧州の間の均衡を保ちながら、マイダン革命以降の欧州傾斜路線で、ロシアとの戦争に陥っていったウクライナの現状も、自分事として見ているだろう。
この種の民族の独立・存続にかかわる事柄は、当該国の国民感情に配慮することが、大切である。特に当事国の末裔である日本人が、関与しにくいのは、致し方ないところもある。
日本はICC加盟国として、アジアのICC加盟国モンゴルに、プーチン大統領の逮捕というICC加盟国としての義務を履行するように働きかける立場にある。正直、それをもう少し目に見える形でやったほうが、外交的には得策だった、という気がしないでもない。ICC加盟国間での日本の信頼感にかかわる。
ただウクライナと一緒になって、モンゴルを一方的に非難し、戦争犯罪人扱いする、というのは、賢くない。歴史の重みを十分に受け止めていることをモンゴル側に見せたうえで、なおICC加盟国としての義務の重要性を語り合うような外交関係に持ち込みたかった。
よくあるやり方として、日本はこの問題にほとんど沈黙を貫いている。失敗をしないためには、それも一つのやり方ではあるだろう。「日本が何をしたって結果は変わりません」と言う日本の外交官の常套句も聞こえてきそうである。しかし、他国を動かす結果が明白に出るのでなければ外交はしない、つまり平時の信頼関係の醸成などには関心がない、などと言う外交官に、何の存在価値があるだろうか。
日本が積極的にICC加盟国及びアジア諸国の双方からの信頼感を勝ち取っていくためには、歴史を踏まえたうえで、なおICCの重要性を語っていく、という深みのあるアプローチが望ましかった。せめてそれを追求する姿勢を見せてほしかったところである。
■
「篠田英朗 国際情勢分析チャンネル」9月9日(月)20時から放送開始!チャンネル登録をお願いします!