光る君へ:天皇の正夫人(皇后)の歴史を明快に解説

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「皇后」という名は「天皇」の尊号と同じく律令制のもとで創始されたのだが、それ以前から「天皇(大王)の嫡妻」という地位はあったようだ。

大和朝廷による統一国家成立のころまでは、皇后の出自についてルールがなかったようだが、仁徳天皇の磐之媛命(葛城家出身)を最後に皇族に限られるようになった。

律令では、皇后の子が即位すれば皇太后、さらに孫に伝えられれば太皇太后ということになった。

母親の出自は重要だったが、正夫人が産んだ子が優先されるというわけでもなかった。また、皇后が政治的な実力者の子から選ばれたわけでも、皇后の親族だから安全だったわけでもない。

七世紀において、天皇の母が強力化したり女帝が出現したのは、唐における即天武后の出現の影響もある。

皇后を皇族に限るという考え方は、聖武天皇の皇后に藤原氏出身の光明子が当てられたのを皮切りに乱れはじめたし、また、天皇の母でもないのに皇太后になったりもした。そもそも、子どものうちに天皇になって、結婚前に退位したりするようになった。

あげくのはては、一条天皇の定子と彰子を手始めに一人の天皇に複数の皇后が現れたり、結婚もしない独身の内親王が皇后を名乗ったり、堀川天皇中宮の篤子内親王のように、30歳近くになってから19歳も年下の甥であるなどという母親のような存在だったりした。

もともと皇后の官房のような役所を「中宮職」といったのだが、やがて「中宮」が皇后の別名になった。あるいは、『源氏物語』の時代の藤原定子と彰子のように先に入内した方が皇后、あとで入った若い方が中宮というように使われたりもした。

さらに、皇后以外の後宮の女性は妃、夫人、嬪というように序列があったが、それも崩れ、女御、更衣、尚侍、掌侍などさまざまな肩書きが出現し、とくに南北朝以降は正夫人も女御どまりになった。皇后という肩書きは鎌倉時代の後宇多天皇の遊義門院が最後であった。

一方、女院は一条天皇生母詮子が落飾するに際して与えられたのが最初だが、やがて天皇の生母でなくとも乱発されることになったが、むしろ、夫人たちにとって女院になるかどうかが重んじられたどうかのメルクマールになった。

また、皇后の子だから天皇になるというよりは、天皇の母だから女院になることも多かった。

皇后などに準じるという「准后」というのも同じで、ついには北畠親房や足利義満、醍醐寺三宝院満済のような男性にまで与えられた。最後の足利将軍・義昭も豊臣秀吉にこの称号を斡旋してもらい幸せな晩年を過ごした。

「皇后」の称号は仁孝天皇妃に遺贈されたことで復活し、明治以降は海外の王妃や皇妃を意識して定着して現在に至っている。だが、こうした西洋式の皇后は歴史的な観点からは離れたものだ。また、皇后は伝統的には殿下であって陛下というのは明治以降である。

さらに、現実の間題として、これが単なる天皇の配偶者なのか、それ以上に職業的義務を伴うものなのか、さらには、皇室というファミリーの「女将さん」としての役割はどうなのか、難しい問題もいろいろあり、昨今の皇室をめぐる苦悩のなかで矛盾が顕在化しているのも事実である。

(本文は拙著「365日でわかる日本史」清談社の一部に加筆した)