嶋崎史崇氏の「ウクライナ・コロナワクチン報道にみるメディア危機」(本の泉社刊)は2023年6月に出版されており、もはや新刊とは言い難い。しかしこの本を入手できたのは最近であることを差し引いても、現在でも多くの方々に紹介するに値する著作であると私は思う。
早速紹介に入ろう。本書の中心的な視座は「半ポスト真実」と言う概念である。この言葉は耳慣れないものに属するので、説明が必要だろう。
むろん、その前に「ポスト真実」がある。この言葉は、2016年にオックスフォード英語辞典によって1年を象徴する言葉として選ばれた。この年は、米国でトランプ大統領が誕生し、英国ではEU離脱の国民投票が可決された歴史的な年である。
そこで同辞典によると、ポスト真実とは「客観的事実が、世論形成に対して、感情や信念への訴えと比べると影響力を持たなくなった」事態であるとされる。簡単に言えば、数値データなどよりも声の大きい宣伝が力を持つ事態である。
この定義を換骨奪胎して「半ポスト真実」が定義される。それは「まずは大多数のメディアが、本当は専門家の間でも複数の見解が対立する問題について、半面または片面から見た見解を伝え続けることで量的に圧倒し、それに対立する少数だが有力な根拠ある見解・見方があたかも存在しないかのように演出する。そうすることにより、メディアが純然たる嘘をついたり、虚偽情報を捏造したりしているわけでなくとも、両方の見方を知る人から見れば、実像から懸け離れた偏向した言論状況が出現する、と言う事態」を指す。
少し長い定義で、やや分かりにくいかも知れないが、勘の良い人なら「ピン」と来るはずだ。大手マスコミがしばしば実行する、一方的な見方の拡散効果は非常に大きく、世論形成に強い影響力を発揮している例は多数あるからだ。
この本ではその例として、ウクライナ戦争とコロナワクチンの報道を取り上げて、具体的に論じている。前者は欧州の東端で勃発した戦争であり、後者は世界規模の感染症への対策なので、一見何ら関係なさそうに見えるが、問題意識を研ぎ澄ますと、いくつかの共通点があるとこの本の著者は言う。
- 前者は核兵器使用の危険性、後者では遺伝子操作による人体への侵襲と言う形で、共に人類の存続を脅かしうる危機が切迫していること。
- 前者は、日本人には一般になじみがなく、現地の言語や事情を詳しく知る人が少ない「遠い世界の出来事」であり、後者は理解するためにウイルス・ワクチン・免疫などの高度に専門的な知識を要する。つまり両方とも一般人には「ブラックボックス」になりがちな話題であること。
- 専門家の間には複数の有力な見方・解釈が存在するにもかかわらず、片方のみに依拠し、最低限の両論併記すら十分でない一方的な報道が、マスコミにより展開されたこと。
- YouTubeなどのプラットフォーマーが、各国政府や国際機関の公式見解に反する動画の削除や情報の排除といった露骨な言論介入を伴う「情報戦」を行ったことで、実質的には世論誘導が行われた疑惑があること。
- 相対的に少数であるが、客観的根拠のある異論を唱える専門家・論者に対して、しばしば「陰謀論者」の汚名が着せられ、しばしば猛烈な中傷とネガティブキャンペーンが展開されたこと。
- 世界経済フォーラム(WEF)をはじめとする、主権国家を凌ぐほどの強大な経済力や影響力を持つとされながら、いかなる民主的正統性を持たない国際組織、大企業、大富豪らが深く関わった案件であること。
これらの条件に適う案件として、本書ではウクライナとコロナワクチンを取り上げたわけであるが、これを読んで私は、真っ先に「気候変動問題」を思い浮かべた。2から6まで、全部ドンピシャで当てはまるではないか。ただし1については、「実際には危機でもないのに危機が切迫していると宣伝された」と修正したいのだが。
ウクライナ危機におけるメディアの片面性
本書第1章は、ウクライナ危機をめぐる半ポスト真実的状況を、10節に分けて紹介している。個々の節内容は長くなるので省略するが、ドンバスの内情、アゾフ連隊、ブチャ虐殺問題など、ウクライナをめぐる主要な問題が網羅され、それぞれ主要メディアの主張と、それに反する見解の存在が紹介されている。この章だけで引用・参照文献は122件あり、各節平均10件以上になる。
ウクライナ問題の歴史的背景として最低限おさえておかなければならない出来事は、2014年の「マイダン革命」であり、これにより親欧的・反露的政権が成立した。この事件に米国諜報機関が深く関与していたことは、現在では周知の事実である。
その後に起きたドンバス地方での戦乱、これを解決するために結ばれた「ミンスク合意」と、これに反した戦争行為が、後のロシア軍侵攻の引き金になったとの指摘は、早くから行われていたが、日本のマスコミ等ではほとんど指摘されなかった事実がある。そして専ら、ロシアの侵攻が悪いとの論調一色になった。
また日本では、ドンバスの親ロシア派住民を正式な「難民」として迎えることはなかった。さらには、ウクライナ議会の人権オンブズマンのリュドミラ・デニソワ氏が報道していた「ロシア軍による戦争犯罪」が根拠のない捏造情報であり、調査していたとされる期間に実際には西欧で遊興していたことが明らかになり、ウクライナ議会に解雇されたとの重大事案が発生したが、これも日本では大きく取り上げられなかった。この問題は「ブチャでの大虐殺」などの信憑性を疑わせる極めて重大な不祥事だったはずなのに。本書では、他の諸問題も具体的に取り上げている。
コロナワクチンと情報統制の構図
続く第2章は、コロナ渦、ワクチン、イベルメクチンを巡る報道において現れた半ポスト真実状況の紹介と分析である。全6節ある。
この場合の半ポスト真実的状況とは、「コロナワクチンの有効性と安全性、特に副反応・後遺症の可能性について十分な情報が与えられない状況において、接種推進ばかりを唱えるプラットフォームや主要メディアの情報発信の偏りによって、結果的に健康に関する一部の有益な判断材料が隠されている」状況を指す。
そして、ワクチン接種が「社会防衛」という大義名分で推進されてきた以上、それに異議を唱える者は反社会的だとの思考回路がある、または、最先端科学の結晶であるワクチンを忌避する者は、非科学的で感情的な愚か者だと言った含意もあるかも知れないと指摘する。これらは、コロナワクチンに限らず、先端的な科学・技術に関して、かなり広く適合する指摘であると私は思う。
またコロナワクチンに関しては、ネット上の情報統制、およびWHO追従と言う問題も顕著に現れた。つまり、WHO見解に反する専門家の座談会動画などが削除されたりしたのだ。日本の主要メディアでは、気候変動問題に関してはIPCCがそうであるように、コロナやワクチン問題ではWHOが圧倒的な信頼感を得ている。
しかし、IPCCはもちろん、WHO自体が決して中立的な組織ではないと言う事実がある。一つの根拠は、WHOの主要資金源がゲイツ財団やそれに近い組織であること。さらに、ゲイツ財団が寄付と言う形で、BBC、NBC、独誌シュピーゲルなど世界中の著名メディアに影響力を与えていると言う事実がある。これらも、一般読者が心得ておくべき事項であるにも拘わらず、日本では広く知られてはいない。
コロナに関しては、PCR検査の信頼性をめぐる種々の技術的な問題があり、またワクチンの「有効率」の計算法や解釈法に様々な問題が存在するにも拘わらず、主要メディアでは取り上げられてこなかった。少数の専門家が声を挙げても、ほぼ無視されたのである。
さらには、厚労省など行政機関によるデータ改竄の疑惑や、ワクチン接種後の死亡率が、コロナではインフルエンザよりも異常に高かった問題に対して、行政と主要メディアの扱いが一面的ではないかとの疑いがあった。コロナウィルス自体の由来などに関しても、種々の疑惑があったが知られていない。
もう一つ、ノーベル賞受賞者の大村智氏が開発したイベルメクチンのコロナに対する有効性をめぐる諸問題がある。この薬品は元々動物向けの寄生虫薬として開発されたため、たかが寄生虫薬が新型コロナに効くわけがないと、専門家から決めつけられた。そのため日本ではこの薬を検討対象から外し、mRNAワクチン接種のみに集中して行った。
しかし実際には、大村氏を中心にイベルメクチンの効用に関する研究は進んでおり、この薬が作用機序も含めてコロナウィルス増殖抑制に効果があることが解明されている。しかし一方、この薬の製造元であるメルク社が、この薬品を新型コロナの治療に使うことを反対する声明を出し、これに対して開発者団体は直ちに科学的根拠を挙げて反論している。
事態は複雑な様相を示しているが、これを解き明かす一つのカギは何と「値段」だと言うことだ。つまり、イベルメクチンは非常に安価であるのに対し、コロナワクチンは比較的高価である。企業にとってどちらに「うま味」があるかは、言うまでもない。
一見複雑に見える現象が、一本の「補助線」を引くことでスッキリと見えてくることはよくある。各種の利権組織=「ムラ」の強固な結合形態も、大抵は「お金の流れ」を見ると良く理解できる。なお、この章の引用文献は123〜281の159件にのぼり、各節平均16件近い豊富な情報量である。
ウクライナ・コロナ・福島を繋ぐメディア構造
本書第3章は「ウクライナ危機、コロナ渦・ワクチン危機、福島第一原発事故の比較」と題され、全4節ある。
最初に「メディアの危機、民主主義への悪影響、情報戦という共通点」が議論されている。これらは、上記2章の内容を踏まえるなら当然語られるべき事柄である。次いで、1970年代と2020年代の二つのワクチン禍の比較、福島第一原発事故とコロナワクチン禍の比較と言う興味深い考察がなされている。
そして「思想としてのコロナワクチン禍試論:カント、ハイデッガー、イリイチに学んで」と題されたユニークな内容の節が置かれている。これは、哲学を専攻する本書の著者ならではの考察というべきだろう。
これらの哲学者・思想家は一般人とは縁遠い存在に思われるが、意外にそうでもないことは、本節を読めば分かる。特に、18世紀のカントの思想が全然古くならず、現代においても、と言うより現代においてこそ、強く輝いて見えるのは、とても印象的だ。私はこの部分を読んで、柄谷行人がカントを再評価していることを想い出し、共通点を感じた。普遍的に通用する考えは、時代や地域を越えて受け継がれて行くとの感を深くする。
さらに「事実認識の段階で批判的問題意識を持つ必要性」が論じられている点を、私は高く評価したい。情報が入ってきた時点で、それを鵜呑みしない・無条件には信用しないことの大切さは、現代においては顕著になっている。ありとあらゆるフェイクニュースがあり、また「これはフェイクだ」とのレッテル貼りも頻繁に横行するこの世界では。
巨大プラットフォーマーと情報操作の現実
最後の第4章は「国家・プラットフォーマー・主要メディアがつくりだす半ポスト真実的状況に対抗するための問題提起」と題され、2節しかないが中身は充実している。
まず、これらの巨大な影響力が作り出す半ポスト真実的状況に対抗するための原理的提言がなされる。それは実際にはさほど難しいことではなく、反する見解にも目を向ける、傍観者の視点を持つ、などの比較的分かりやすい内容である。かなり実践的な提言と言えるだろう。
第2節は「半ポスト真実的状況の出現を避けるためのメディア別の提言」が、インターネット、テレビ、紙媒体の順に挙げられている。それぞれ興味深いが、私にとっては、インターネットの世界でオルタナティブ・プラットフォームが多数紹介されている点が、大いに参考になった。これまで見たこともなく、その存在さえも知らなかったプラットフォーマーが結構たくさんあることを知り、今後の情報収集に役立つと思えたからだ。
この種の多様な小規模メディアの活用と、個人同士の連携が、巨大プラットフォーマーその他による半ポスト真実状況の克服への第一歩になるだろう。本書の「結論に代えて」でも、そのことが語られている。それらの中に、この「アゴラ」も登場することは特記しておきたい。なお、この章までの引用文献番号は379まである。全276頁の書籍としては、異例の多さであるだろう。
現代のメディア危機に挑む本書の意義
本書は、現代人が直面している情報・報道界のあり方・問題点を、丹念な情報収集と緻密な分析によって描いた労作である。そして実践的な提言もなされている。「半ポスト真実」の概念は、現代の状況を理解する上で、有用なキーワードになり得ると私は思う。
実は、孫崎享「戦後史の正体」(創元社刊)には次の文言があって、あまりにも我が国の半ポスト真実的状況をピタリと言い当てていることに仰天した。1979年に起きた、ある論文発表に対する当時の反響に関する証言である。
その論文は、米国公文書館で発見された歴史的新事実を暴いた衝撃的な内容だったのだが、その論文の著者は「日本の新聞や学会は、まったくの黙殺でした」「不都合な事実には反論しない。あたかもそれがなんの意味もないように黙殺する。それが戦後の日本のメディアや学会の典型的な対応なのです」と言ったそうだ。これが、早くも1979年には起きていた「半ポスト真実的状況」の一例である。
最近でも、気候変動問題や脱炭素への批判などを、私だけでなくかなりの数の論者が発表しているにも拘わらず、真正面から反論されたことがない。これもまた、「不都合な真実には反論しない、黙殺する」に属する事態なのだと感じる。全く同じだ。
その意味で、この嶋崎氏の著作が捉えている問題意識の射程は、相当に広くかつ奥深いものを包含していると言える。情報を発する当事者であるマスコミ関係者だけでなく、マスコミ報道を受け取る一般市民を含め、できるだけ多くの方々に一読をお勧めしたい。
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