イエスを十字架から降ろすべきか

キリスト教のシンボルの十字架には「イエスの磔刑像」を表示した十字架と「イエス抜きの十字架」の2種類がある。キリスト教の信仰からいえば、迫害され、極刑された「受難のイエス」の十字架と、十字架の3日後、復活した「希望のイエス」を表示した十字架だ。

イタリアのフィレンツェの「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」の「十字架のイエス」(フィレンツェ・ガイドブックから)

「イエス抜きの十字架」を求める声がある。その理由として、イエスが十字架にかけられた場面(受難と死)よりも、「復活」を強調すべきだというわけだ。

「イエス抜きの十字架」は、キリストが死を乗り越えたことを象徴し、救いと希望を示すものとして解釈される一方、十字架にかけられたイエスの姿は、多くの人に「苦痛」「悲しみ」を連想させる。幼児が教会で磔刑のイエスをみて「イエス様が可哀そうだ」と呟いたという話を聞く。「イエス抜きの十字架」は、特定の宗派や伝統に縛られない普遍的な救いのシンボルとして解釈される。

一方、カトリック教会や多くの伝統的な教派では、キリストの受難と復活は切り離すことができない。十字架にかけられたイエスの姿(磔刑像)は、人間の罪のために犠牲を払ったという救いの核心的な教義を象徴している。

「イエス抜きの十字架」に焦点を合わせすぎると、苦難や犠牲の重要性を軽視する危険が出てくる。イエスの磔刑像は、初期教会以来、信仰の深い象徴として使われてきた。この伝統を変更することは、教会の歴史や文化的アイデンティティを損なう可能性が出てくるといった懸念が出てくる。

「イエス抜きの十字架」は復活の象徴としてキリスト教の希望と勝利を表している。このため、復活祭などの場面では「イエスなしの十字架」が使われることが多い。一方、「磔刑像のイエス」はキリスト教信仰の核心である受難と贖いを強調する重要な象徴だ。

だから、カトリック教会内では、「磔刑像のイエス」と「イエス抜きの十字架」を場面や用途に応じて使い分ける。例えば、典礼やミサでは「磔刑像イエスの十字架」を用い、復活祭などの祝祭的な場では「イエス抜きの十字架」を使用する、といった具合だ。

ところで、「磔刑像のイエス」か「イエスなしの十字架」かは、どこに信仰の重点を置くかで答えは変わるが、イエスの十字架救済をその信仰の核とするキリスト教会で十字架を廃止すべきだという声も聞かれる。

「十字架廃止論」の背景には、一部のキリスト教徒や宗教思想家は「十字架は偶像崇拝に陥る危険性がある」と指摘する。旧約聖書のモーセの十戒では偶像崇拝が禁じられており、十字架や聖像の使用がこれに該当すると考えられるわけだ。それゆえに、一部のプロテスタント系教派では、十字架の使用を控える傾向がある。

また、現代社会では、宗教的多様性や世俗化が進んでおり、十字架が特定の宗教の象徴として他者を排除する可能性があると考えられる。特に公的な場(学校や政府機関など)での十字架の掲示に対する是非が欧州社会では議論を呼んできた。十字架が「キリストの受難と死」の象徴としての側面が強調されすぎると主張し、十字架の使用を見直すべきという声が聞かれる。

参考までに、「十字架の廃止論」には、感情的、象徴的な側面だけではなく、神学的な指摘が含まれている。イエスの十字架は神の苦悩を象徴し、神の涙をもよおす。それを象徴する十字架を掲げ続けることは適切ではない。また、十字架は神の栄光や力を表していない。むしろ、イエスの磔刑像ではなく、より栄光に満ちた復活や天上のイエスを象徴とすべきだといった主張だ。

十字架は人類の罪の結果であり、それを記念することは人間の失敗や罪深さを繰り返し思い起こさせる。十字架上のイエスを強調することは、むしろ希望ではなく悲劇に焦点を当てる、というわけだ。

問題はもう少し深刻だ。イエスの十字架は必然だったか、というテーマだ。キリスト教の教えでは、イエスの死は偶然の悲劇や不幸な出来事ではなく、神の救いの計画の中心であるとされている。十字架は、神が人類の罪を赦すために自ら進んで選ばれた道であり、神の愛の究極的な表現として理解されている。

伝統的な教えでは、イエスの十字架の死は「神の計画の一部」とされているが、イエスは当初、地上で神の王国を実現することを目的としていたが、宗教指導者や民衆がこれを拒絶したために、十字架の道を選ばざるを得なくなったのではないか。すなわち、イエスの十字架は、次善の選択肢だったのではないか。

神が遣わしたイエスは33歳で十字架で殺害された。イエスは本来の使命を果たすことが出来ずに終わった。その結果、イエスは十字架を受け入れ、再臨を約束したのではないか。この考えは、「イエスが十字架で死ぬために生まれたのではなく、生きて人類を救済するために来た」という観点に基づいている。そのような観点から、「イエスを十字架から降ろすべきだ]という主張が出てくるわけだ。

ちなみに、当方は7年前、「イエスを十字架から降ろそう!」(2017年12月14日参考)というコラムの中で、「悪魔はイエスが十字架から解放され、再臨してその使命を果たすことを阻止するために彼を十字架に縛り、十字架信仰を構築してきたのではないか。イエスを祭壇の十字架から降ろすべきだ」と書いた。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年12月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。