政策提言委員・金沢工業大学客員教授 藤谷 昌敏
2024年11月11日、中国広東省珠海市で62歳の容疑者が車で体育施設のランニングコースに侵入して次々と人をはねた。35人が死亡し、43人が負傷した。情報は瞬く間にSNSで中国全土に伝わり、悲惨な現場動画に衝撃が広がった。
中国では類似の暴力事件が相次いでいる。6月に江蘇省蘇州市で日本人母子が襲われ、9月には広東省深圳市で日本人学校の児童が刺殺された。同月には上海市のスーパー、10月には広州市で切りつけ事件が起きた。ネットには「社会性報復」という言葉が氾濫した。
現在、中国では不動産関連企業の失速に伴って経済が低迷し、将来への不安や政府への不信が生まれている。
当局は「社会性報復」の存在は認めず、珠海事件の犯人の動機は「離婚協議への不満」、9月の上海事件は「個人的なトラブル」とあくまでも個人的事情による犯行と説明している。相次ぐ事件の原因が社会不満と認めれば、責任の在(あ)り処(か)が問われる。その矛先が中国共産党や政府に向かうことを当局は恐れているのだ。
中国外務省の林剣副報道局長は11月13日の記者会見で「珠海で起きた事件は極めて悪質で、習近平国家主席も重要な指示を出した」と述べた上で、「外国人の死傷者は出ておらず、中国は世界で最も安全で、刑事事件の犯罪率が最も低い国の1つ」と強調した。
「国家の安全」を最重視する中国にとって、今回の事件は習近平政権に大きな衝撃を与えた。事実、習近平国家主席は事件翌日の12日、今回の事件は「性質が極めて凶悪」と述べ、「関係部門は今回の教訓をくみ取り、リスクをコントロールし、極端な事案の発生を防ぐべきだ。人民の生命、安全と社会の安定を守る必要がある」と指示を出している。
この指示を受けて、当局は多発する無差別殺傷事件を防止するために、村や町の幹部に犯罪を起こしそうな人物を洗い出すよう指示したようだ。これによって、当局による市民監視は一層厳しいものになることが確実だ。
「社会性報復」と「閉塞感」
「社会性報復」とは「社会への報復」を意味する。「報復社会」とも言う。一連の事件の背景には中国経済の低迷による若者の失業率の高さ、不動産投機の失敗などにより、先行きが見通せない著しい不安感がある。
中国は本来、数億個の監視カメラや官憲による厳しい監視社会であり、SNSへの投稿も検閲される徹底した言論統制下にある。新型コロナウィルスによる大規模ロックダウンにより、中国はいち早くパンデミックから離脱したと言われたが、その間の厳重な隔離は多くの者に虚無感さえ与えた。
また「閉塞感」とは明らかに発生している課題に対して何か心配があったり、不安があったりするというよりも、何となく将来に希望を見出せない場合や「いずれやって来るのではないか」という漠然とした不安などの感情を指す。
中国社会においてはそうした「閉塞感」があるため、社会生活を営む人々が希望や夢を持ち得ず、何となく不満と不安を抱かざるを得ない状況となっている。
全体主義国家が陥る社会
政治哲学者ハンナ・アーレントは著書「全体主義の起源」の中で、「全体主義は国家ではなく、大衆運動である」と定義し、「全体主義運動は自らの教義というプロクルテスのベッド(ギリシャ神話の故事、容赦ない強制や杓子定規の意味)に世界を縛り付ける以前から、一貫性を具えた嘘の世界を作り出す。この嘘の世界は現実そのものよりも、人間的心情の要求に遥かに適っている」と述べた。
つまり、不安と恐怖に苛まれた大衆は全体主義が構築した空想世界に逃げ込んで安堵感を得る。それは現実を自分たちが見たいものに変化させてくれる虚構の世界である。
全体主義体制においては単一政党や国家の諸機関の間に競合や対立が日常的に生じる。軍や警察をはじめとする各種の行政や経済管理の分野で同一領域に複数の党機関や行政機関が設立されて争いを繰り広げる。通常の国家体制において存在していた権限配分や役割分担は解体される。効率的な行政や権力の相互抑制はなく、指導者を取り巻くリーダーの権力争いが混乱に拍車を掛ける。
現在、グローバリゼーションの名の下で進められているモノ、カネ、人の国境を越えた移動や交流は経済的な格差の拡大やそれに伴う民族、人種間の対立を生み出しつつある。
経済発展と手を携えて進行する科学技術・テクノロジーの進展はそれまでの人間の生活のあり方を変容させつつある。例えば、政府が国民の求めている情報を隠蔽し、行政が関係文書や資料を隠匿・改竄する事件が頻発している。民間企業でも顧客や消費者に同様のことが日常的に行われている。
全体主義国家「中国」の悲劇
中華人民共和国の歴史を振り返れば、革命当初、相次ぐ戦乱と貧困に喘いでいた大衆は中国共産党が作り上げた「平等と繁栄」という虚構の中に逃げ込み、ブルジョア階級を倒せば夢の世界がやってくると信じていた。だが、ブルジョア階級の手先となっていたのもまた大衆であり、大衆同士の虐殺と私刑が各地で繰り広げられた。
革命が成就した後、それまでのブルジョアが共産党に代わっただけで、大衆が置かれた環境は一向に変わらなかった。中国共産党は毛沢東理論を繰り返すことで大衆を洗脳し続け、いつか大衆が夢見る世界が来ることを信じさせてきた。
だが、今の中国は少子高齢化や経済成長の鈍化により、「社会性報復」と「閉塞感」に満ちた社会に陥った。その原因には75年にわたる中国共産党の独裁制による自由抑圧、言論統制、人権弾圧があると考えるべきだろう。
【参考資料】
- 牧野雅彦『今を生きる思想 ハンナ・アーレント 全体主義という悪夢』(2022年、講談社現代新書)
- 「中国、止まらぬ『社会性報復』習政権が恐れる批判の矛先」桃井裕理(2024.11.13、日経新聞
- 「『不安』と『不信』が渦巻く現代社会で、『ハンナ・アーレントの思想』が必要とされる理由」(2023.2.3、現代ビジネス)
■
藤谷 昌敏
1954(昭和29)年、北海道生まれ。学習院大学法学部法学科、北陸先端科学技術大学院大学先端科学技術研究科修士課程卒、知識科学修士、MOT。法務省公安調査庁入庁(北朝鮮、中国、ロシア、国際テロ、サイバーテロ部門歴任)。同庁金沢公安調査事務所長で退官。現在、JFSS政策提言委員、経済安全保障マネジメント支援機構上席研究員、合同会社OFFICE TOYA代表、TOYA未来情報研究所代表、金沢工業大学客員教授(危機管理論)。主要著書(共著)に『第3世代のサービスイノベーション』(社会評論社)、論文に「我が国に対するインテリジェンス活動にどう対応するのか」(本誌『季報』Vol.78-83に連載)がある。
編集部より:この記事は一般社団法人 日本戦略研究フォーラム 2025年1月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は 日本戦略研究フォーラム公式サイトをご覧ください。