韓国の尹錫悦大統領が15日、「非常戒厳」宣言を巡り内乱容疑で拘束された。現職大統領の拘束は韓国史上初めて。ソウルからの情報によると、拘束された大統領は聴取に対してこれまで口を閉じているという。正直にいうと、欧州に住んでいると、ソウルから報じられる「弾劾」という言葉が耳に異様に響くのだ。大統領を追求する野党とそれを支持する国民から飛び出す「弾劾」という、通常は使わない重々しい言葉だけが凍てついた路上を独り歩きしてる、といった感じだ。唐突で申し訳ないが、「韓国人は相手の落ち度を許すということはないのだろうか」と考えた。相手の間違いをこれでもか、これでもかと糾弾する、といったニュアンスが「弾劾」という言葉から感じるのだ。重い、とにかく重いのだ。
その時、オーストリア国営放送のウエヴサイトで「許しの限界(Die Grenzen der Vergebung)」という見出しの記事が目に入った。ナチス親衛隊(SS)の兵士で、数百人のユダヤ人を殺害した人物が死の床でユダヤ人に許しを求めたとしたら、ユダヤ人はどう応じるべきか。この倫理的テーマを、ナチス戦犯追跡者(通称ナチハンター)として知られるシモン・ヴィーゼンタール(1908年~2005年)が55年前に出版した著書『ひまわり(DieSonnenblume)』で問いかけているというのだ。
「ひまわり」は1969年にフランス語で初めて出版され、翌年ドイツ語で刊行された書簡で、2つの部分で構成されている。シモン・ヴィーゼンタールの体験をもとにしたフィクションとドキュメントの中間に位置する自伝的物語だ。1940年代初頭、彼はウクライナのリヴィウ(当時はレムベルク)でナチスによる強制労働を強いられていた。ある日、看護師に呼ばれ、死の床にいる兵士のもとに案内された。その兵士「カール」は21歳のSS隊員で、ユダヤ人を一つの建物に追い込み、ガソリンを用いて火を放ち、殺害したと告白した。その罪悪感に苛まれた彼は、ヴィーゼンタールの分身である語り手に許しを請う。しかし、語り手は無言でその場を立ち去る。
この対応が正しかったのかを探るのが第2部だ。ヴィーゼンタールは1968年から1969年にかけて、このジレンマについて、宗教、哲学、文学の著名人に意見を求めた。答えは一つではなく、多様な受け取り方があった。
多くの寄稿者は、ヴィーゼンタールが直面した状況を重視した。例えば、イタリアの化学者でホロコースト生存者のプリーモ・レーヴィは、「死を目前にした強制労働者」の立場を理解することの重要性を指摘し、このジレンマは抽象的な議論では解決できない、としている。宗教的観点からは、ウィーンのフランツ・ケーニヒ枢機卿は「その場での許しはほぼ超人的な行為だ」と述べている。同時に、ヴィーゼンタールを救おうとするようなコメントも寄せている。一方、ナチス幹部だったアルベルト・シュペーアは、自身の罪悪感とトラウマを語り、ヴィーゼンタールを「理解者」として受け取っている。
「ひまわり」の発行後、特にイスラエルでは批判的な意見が多数寄せられた。600万人以上のユダヤ人がナチス・ドイツ軍の蛮行の犠牲となった後、「なぜ神は多数のユダヤ人が殺害されるのを黙認されたか」「神はどこにいたのか」といったテーマが1960年から80年代にかけ神学界で話題となった。すなわち、アウシュヴィッツ前と後では神について大きな変化が生じたわけだ。神学界ではそれを「アウシュヴィッツ以降の神学」と呼んでいる。ホロコースト生存者たちは、倫理的な問題に悩む余裕がなく、「なぜ自分が生き残ったのか」や「他の人を救えなかったのか」に悩む日々を送っていた。また、イスラエル国家の建設に尽力していたユダヤ人らにとっては、この本のテーマは受け入れがたいものだった。
ちなみに、ドイツの実存主義哲学者のハンス・ヨナス(1903~1993年)は「アウシュビッツ以後の神」という著書を出し、ナチス・ドイツの絶対悪に対してなぜ神は沈黙していたのか、暴力の神学的意味などを追求した一人だ。同時に、「神の死」の神学が1960年代に登場してきた。
ヴィーゼンタール自身、ナチス戦犯を法の裁きにかけることを生涯の使命としていた。彼のモットー「正義であって復讐ではない」は、1988年に出版された回想録のタイトルにもなっている。当方はナチ・ハンターと呼ばれたヴィ―ゼンタールと数回、会見したが、彼に「戦争が終わって久しいが、なぜ今も逃亡したナチス幹部を追い続けるのか」と単刀直入に質問したことがあった。するとヴィーゼンタールは鋭い目をこちらに向け、「生きている人間が死んでいった人間の恨み、憎しみを許すとか、忘れるとか、言える資格や権利はない。『忘れる』ことは、憎しみや恨みを持って亡くなった人間を冒涜する行為だ」と強調した。同氏の死生観に当方は当時、驚かされたことを思い出す。
「許しの限界」を書いたルカス・ヴィ―ゼルベルグ記者は「シモン・ヴィーゼンタールの作品において、ひまわりは何度も登場する重要なシンボルだ。ドイツ兵の墓の多くにはひまわりが咲き誇っている一方、ナチスによって殺害されたユダヤ人たちは、無名のまま集団墓地に葬られている。この対比によって、ひまわりは『奪われた個性』やホロコーストの象徴として描かれている」と解説している。
ヴィーゼンタールがひまわりを選んだ背景には、「個性」と「記憶」の喪失への深い悲しみがあるのだろう。ひまわりが持つ明るい象徴性を、犠牲者たちの無名性と対比させることで、彼は人間一人ひとりが持つ固有の価値を訴え、命の尊さを再認識させようとしたのではないか、というのだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年1月日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。