はじめに
シンポジウムに参加できなかった人にも当日の出来事を伝えよう。このように考えながら、私は富山市へ向かった。
だが、シンポジウムを終えて帰路に着くため富山駅で新幹線の到着を待っているとき、「まず『月刊正論』6月号に掲載された、世界平和統一家庭連合田中富広会長インタビューの裏話から始めないと、真意を理解してもらえないかもしれない」と感じた。なぜなら会場にいたメディア関係者ですら、あれもこれも知らないまま取材していたように思えたからだ。
私は安倍晋三氏暗殺事件以後、旧統一教会糾弾の流れを追い、信徒たちの実情を取材して、教団が「やったこと」と「やられたこと」がありのままに社会へ伝えられていないのを痛感した。
そこで教団側へ、「洗いざらい言いたいことを話しつつ、同時に説明してこなかったことや、触れられたくないことも明らかにすべきではないか」と伝えて実現したのが、田中富広会長インタビューだった。私と『正論』が行なった作業は、教団糾弾報道を始める前に全マスコミがやっておかなければならないものだったのだ。
ただし掲載面を12ページ確保したにもかかわらず、田中会長が語った内容と、説明に含まれる微妙なニュアンスをすべて紹介できなかった。なぜなら、これまで報道が多くの事実や出来事を無視してきたので、あらゆるテーマに対して前提となる説明が欠かせなかったからだ。マスコミは暗殺事件と教団を結びつけるため、教団と信徒をほぼ何も取材しないまま、彼らからの事情説明を嘘と決めつけて、教団糾弾を始めたのである。
この結果、あたりまえだが憲法に定められた人権が傷つけられ、日本の民主主義が破壊された。
「人権は傷つけられていない」「民主主義も破壊されていない」「教団と信徒は罰を受けただけだ」などと公然と語る人たちがいるのは知っている。しかし相手を対等に扱わず糾弾したのだから、この問題のオピニオンリーダーとなったジャーナリストや弁護士と、番組や記事を制作した報道機関が信徒の人権を侵害し、日本の民主主義を傷つけたのは間違いない。
なお統一教会最大の被害といえる「信徒の拉致監禁と強制棄教」を軸に、教団にまつわる出来事を整理したのが下の図だ。拉致監禁と強制棄教は、高額献金やいわゆる霊感商法と呼ばれるものへの対策ではなく、伝統宗教のキリスト教と共産党との関係で発生している。高額献金やいわゆる霊感商法とされるものの実態も、報道とはだいぶ違う。
これらを踏まえて、『宗教と報道、人権問題を考える』シンポジウムで語られた内容に触れていただきたい。
富山教会で行われた公開シンポジウム
【ショートムービー】
5月14日、富山市で開催された公開シンポジウムが異例だったのは、家庭連合の教会で催しが開催され、報道機関に内部が公開された点だ。これも一地域の、一教会の例ではあるものの「ありのまま」を知らせる目的だった。
パネリストは全国拉致監禁・強制改宗被害者の会代表の後藤徹氏、富山県平和大使協議会代表理事でフリージャーナリストの鴨野守氏、そして私だった。
【鴨野守氏・ショートムービー】
鴨野氏は「家庭連合信徒への侮蔑的な報道被害を止めよ!」と題した講演で、シンポジウムの口火を切った。まず鴨野氏自身の取材経験を語り、第三者を批判する際の裏どりの重要性を指摘した。そのうえで、3年前の8月、地元のテレビ局から取材されたときの不可解な番組制作の体制を説明した。
テレビ局は、私のインタビューの前に、私を批判する識者3人に事前取材をしていた。そのうちの有田芳生氏と全国弁連の山口広弁護士と私は一度の面識もない。一度も会っていない人物、私の話も聞いてもいないのに平気で私を非難する手法が、良識ある有識者と言えるのか。また、そのような番組を平気で制作するメディアに、報道の良心はあるのか。家庭連合の現役信者の話に真摯に耳を傾ける必要などない。そのような社会的マナーを払うほどの価値もない人たち、団体であるという“見下し”がなければ、とてもそのような仕事はできないと思う。マスコミ関係者は宗教、信仰に対して偏見を持つことなく報道してもらいたい
鴨野氏の体験を聞いて、「テレビ局はまたやったのか」と感じる人が多いのではないか。マスコミの結論ありきの取材やインタビュー、切り取り、罠に陥れるかのような番組制作は統一教会糾弾に限らない。限らないが、あまりにもひどかった。
続いて私が壇上に立ったが、先に後藤徹氏の講演を紹介する。
【後藤徹氏・ショートムービー】
全国拉致監禁・強制改宗被害者の会代表の後藤徹氏は、31歳から44歳までの12年5カ月間、親族や脱会屋によって監禁され、自らの信仰を捨てるよう強要された経験を持つ。解放後、拉致監禁に関与した脱会屋らを民事提訴し、彼らの不法行為が認定され、2200万円の賠償命令が下りた。この経緯は自伝『死闘 監禁4536日からの生還』に余すことなく書き尽くされている。
後藤氏は、「拉致監禁して脱会させることが許されるのか?」と題して講演を行なった。
3月25日、東京地裁が下した家庭連合解散命令に「大変な衝撃を受けた」と述べ、「信徒の拉致監禁事件がなければ、家庭連合の解散問題はありえなかった」と断言した。純粋な信仰を持っていた信者が長期間の監禁生活に疲れて脱会を表明すると、次は家庭連合を訴える訴訟の原告を強いられる反対派のシステムがあったという。
「文科省が陳述書を提出した中でも、かつて裁判の原告となった元信者のうち、約9割が拉致監禁等の身体隔離を伴う脱会説得によって脱会した元信者である」として、解散命令裁判の問題点を指摘。自らの長期監禁生活について述べた。
後藤氏の存在は、教団あるいは信徒が「何をされたのか」を端的に物語っている。教団がやったとされることと、悲惨な拉致監禁を比べると、釣り合いが取れないと後藤氏は指摘したが、これもマスコミは取り上げていない。
【加藤文宏・ショートムービー】
さて私は、「報道が世の中の出来事を選別する行為を『アジェンダ設定』と呼ぶ。社会で何が重要で、何が論じられるべきか、マスコミが議題を設定するという意味だ。いつ、どのタイミングでやるか。内容は批判的にするのか同意するのか。どのぐらいの分量で、どれだけの時間を費やすか、何回報道するか、何社が報道するか。マスコミが報道しなかったら、その出来事はなかったと同じだ。安倍元首相暗殺事件前、旧統一教会と政界の関係は重要ではなかったため、この世の中では報道されていない。ところが、安倍元首相暗殺後、統一教会と政界の関係の報道があふれた。悪い言い方をすると『嘘も百回言えば本当になる』」とまず説明した。
こうして、「正しいことを間違っていると認識させたり、大した出来事でもないのに重大な一大事と認識させる、すなわち“思考のすり替え”が行われる。これが、嘘が本当になる正体。このようなメディア世論があたかも本物の世論と国民を錯覚させ、憎悪のモンスターを作りあげてしまう」と説明し、過熱した統一教会報道の問題点を指摘した。
当日使用した図版を紹介する。
1. 統一教会糾弾と報道の関係は切っても切れない。ではいったい、報道とは何だ?
──────
2. 報道は社会で何が重要で、何が論じられるべきか、マスコミが議題を設定する。いつ、どのタイミングでやるか。内容は批判的にするのか同意するのか。どのぐらいの分量で、どれだけの時間を費やすか、何回報道するか、何社が報道するか。マスコミが報道しなかったら、その出来事はなかったと同じ。
──────
3. 議題が設定され、各社が同じ論調を何回も放送したり記事にすることで「メディア世論」が形作られ、メディア世論に触れた人々と政治家は「世論のうねりそのもの」と錯覚する。この錯覚によって議題設定された人や出来事への脅威が広がるモンスター化が浸透し、政治家が政策を変更するだけでなく、大衆は興奮し、大衆の中から過激な行動を取る者が現れる。
──────
4. 議題設定とメディア世論の例。「独裁者」である理由がまったく説明されないまま、安倍晋三氏はモンスター化された。死後は統一教会糾弾が相まって、ますますモンスター化された。
──────
5. 統一教会糾弾では。独裁者安倍というモンスターの影響があったうえで、二世問題や、献金・霊感商法問題によって、教団はモンスター化された。虚像によるモンスター化の過程で、報道は教団側からの主張や説明や意見をまったく採用しなかった。
────────
6. これは原発事故で東電と原発をモンスター化した「扇動の循環構造」と同じ現象だった。
──────
7. 整理する。❶多様な現実や複雑な関係が、❷報道の議題設定によって単純化され、メディア世論が発生し、個人や集団や出来事のモンスター化が始まる。❸この結果、多様な影響が生じる。❹ところが報道は続報として「報道にとっての事実」と「報道にとっての正義」しか取り上げず、多様な影響が報道から無視される。❺こうして報道されたものが唯一の事実と正義となり、無視されたものは放置されたままになる。
──────
8. 報道にとっての事実は「教団がやったこと」であり、やりすぎた教団と加害性だけが報じられた。内容は洗脳、カルト、政治とのズブズブ関係、高額献金、二世虐待、霊感商法、韓国への送金などだった。
いっぽう「教団がやられたこと」である、拉致監禁・強制棄教、蔑視・差別・排除は「誰が何のためにやったのか」「これで信徒はどうなったのか」無視された。教団が行なったコンプライアンス宣言と効果も無視された。ソロモン派の売春は紀藤弁護士が言い出したが、このような事実はなかった。洗脳・カルトについても、報道は取材と検証をしていない。こうした口から出まかせを採用し続けたのがマスコミ。
──────
9. 被害の事例。拉致監禁が肉体を傷つけただけでなく、信徒の精神を破壊した。脱洗脳のためのカウンセリングと言われるが、実態は洗脳による棄教の強要でしかなく、被害を知りながら関係者は信徒を福祉や医療へつなごうとしなかった。1966年から続く、高額献金とも霊感商法とも(本当は)関係のないキリスト教側の問題と共産党の関与。
──────
10. 差別の事例。カルトとは本来、キリスト教内の異端問題だった。しかしカルト反対やカルト撲滅が大衆化して、差別を「対策」「正義」と言い張れる分野になった。引用した漫画では、朝鮮半島の民族と文化蔑視、馬鹿チョンという差別語を使用している。これが大衆化した反カルトの本質である。
──────
11. 報道の議題設定。このとき利用されたのがオピニオンリーダーや弁護士らによるカルト排除論。ここからマスコミ世論による虚像としての「モンスター化した統一教会像」が生まれ、大衆が興奮して追随しただけでなく、政治家も自らの正当性を失うまいと動いた。オピニオンリーダーや弁護士らは、大衆の興奮に対して、怒りの対象を示唆した。この循環が繰り返された。
司法もまた、正当性を失うまいとした政治家、あるいはイデオロギーへの加担によって、自らの正当性を主張するように動いたのが解散命令請求だった。
司法って何だ? 憲法って何だ?
──────
報道と大衆的反カルトがもたらしたもの
時間の制約からシンポジウムで語れなかったことや、富山市を中心に広域的に教会を統括する鄭日權大教会長の発言を紹介する。
報道と大衆的反カルト
まず報道と大衆的反カルトがもたらした差別の正当化について。
大衆的な反カルトはサブカル特有の斜に構えた態度、異なる者へのおちょくりを核として、安全圏から目新しい宗教をあげつらってきた。出自を問う同和差別、職業差別、障害者差別、ハンセン病患者などへの疾病差別、人種差別などが堂々と行えなくなった現代において、「差別することがどうしても必要な人たち」にとって差別を「対策」と言いくるめられる分野として登場したといってよい。
大衆的な反カルトは自らの思い込みと、宗教へのパブリックイメージをそのまま増大させるだけで、宗教と信徒の実像については取材も検証もしなかった。たとえば教団等の施設に忍び込むパフォーマンスを演じても、教団またはさまざまな信徒を取材していないのである。彼らはジャーナリストでも報道機関でもないが、これが議題設定であり、対象をモンスター化することだけが目的だったのだ。
前掲の反カルト漫画は2012年に掲載されたものだが、当時の風潮と彼らの基本姿勢を反映して、朝鮮半島や韓国が何よりも蔑視すべきものとして扱われているのが実に象徴的である。
こうしてキリスト教における異端問題とは違う、独自のカルト概念を生み出して、宗教と信徒を社会から排除すべきものと訴え、社会の域外へ排除することで差別を固定化した。社会の域外へ追いやることと、戻って来ないように差別することを「対策」と位置付けたのである。
同和差別、職業差別、障害者差別、ハンセン病患者などへの疾病差別、人種差別が正当なものとされた時代に、これら当事者の社会からの排除が「対策」と称されていたのと同じである。こうした時代は差別する側に正当性があったため、政治家も自らの正しさを明らかにするため差別に加担した。
統一教会糾弾という「対策」を名乗る差別だけでなく、あらゆる差別行為を「主観的尺度の座標に基づく排除と差別の概念」としてまとめたのが下図だ。
「差別することがどうしても必要な人たち」とは、自らの曖昧な社会的正当性に怯える人々であり、自らが社会的に正当性のある存在になって優越感に浸りたい人々である。
これらの人々は、政治的(人間関係的)な強者、社会的に優れた存在、質的・宗教的な穢れ(汚れ)から遠い清浄な存在に成ろうとして、何者かを「劣等」と位置づけ、この相対的な関係から絶対的な関係へと何者かを社会の域外へ追いやろうとする。何者かを社会の域外にある「被差別領域」に位置付けることで、差別されて当然の人権が認められない存在にする。
以上をカルト認定で行なってきたのが大衆的反カルトであり、現在ではキリスト教牧師らの本来の反カルトと渾然一体となっている。また反差別団体が、前掲の漫画をはじめとする大衆的な反カルトを問題視しないところに、左派・リベラルを称する人々の欺瞞がよく現れている。
報道が大衆的反カルトのメンバーと、彼らが生み出した風潮を利用しているのは、あえて説明するまでもないだろう。
鄭日權大教会長の憂慮
統一教会がやったとされることには、実際にあったことと、存在していないことがある。実際にあったことについても、報道や世間で信じられている内容と実態にギャップが生じている。これは誰が誰にやったのかに始まり、被害とされるものが有るのか無いのか、その被害とされるものは何なのかにまで至っている。
まず正体隠し伝道について。教団が用意したビデオセンターという布教拠点に教団名が掲げられていなかったのは事実だ。しかし、宗教色を消した伝道は1980年代から90年代の宗教界全体の問題であったのを理解しておかなければならない。なおビデオセンターでは椅子が用意されコーヒーなど飲み物が提供されるため、公然と休憩場所として利用していた人たちがいたという。
当時入信した人々を数多く取材したが、いずれの人も早々に教団名を告げられている。また洗脳によって入信した人はなく、各自がそれぞれの課題を抱え、課題を解決するためさまざまな選択肢の中から教団の教義と信仰を選んでいた。
これを理由に拉致監禁、強制棄教が肯定されたり、はたまた解散命令が下されるのはおかしい。
続いて高額献金と、高額献金の原資となる物品の販売つまり霊感商法と言われるものについては『正論』のインタビューで田中会長の説明を紹介した。「やりすぎ」の一例だが、会長の見解を批判する以上は確たる証拠を示さなくてはならない。さらに教団改革、信徒の意識改革としてのコンプライアンス宣言によって事態が収拾され、理由がおかしなものではない限り献金が返金されている事実も認めなくてはならないだろう。
また勧誘被害とされるもの、献金被害とされるものは、拉致監禁を経て強制棄教させられた人々を中心に証言され、教団への裁判や解散命令請求の根拠とされているが、古典的ともいえる背教者問題とともに扱わなくてはならないものである。
背教者とは、宗教(主にキリスト教)の教えや主義主張を捨て、信仰を裏切った人だ。信仰を捨てただけで背教者とされることはまずなく、敵に味方して元来の味方に背いて背教者とされる。
初めて拉致監禁・強制棄教による複雑性PTSD発症の事例(エホバの証人信徒)を紹介した論文『宗教からの強制脱会プログラム(ディプログラミング)によりPTSDを呈した1症例(池本桂子・中村雅)』では、棄教によって「道義心」が傷つくことを報告している。こうした心理下で、棄教という選択を合理化し正当化するため、信仰していた宗教を攻撃しがちなのが背教者だ。
一神教への理解がない日本では知られていない問題であり、分かっていれば彼らの証言の扱い方が変わって当然であり、それ以上にケアまたは治療が必要な場面といえる。牧師らは拉致監禁と強制棄教は福音のためと信じきり、これを脱会コンサルタント、弁護士、ジャーナリストが政治的に、社会的名誉のために利用し、差別主義者の反カルト人員も利用してきた。棄教者も自己正当化のため利用した。
したがって、これらによって拉致監禁、強制棄教が肯定されたり、はたまた解散命令が下されるのはおかしい。
以上、統一教会糾弾が世界的にあり得ないとされる所以である。
シンポジウムの最後に挨拶した鄭日權大教会長は、「家庭連合に留まらない、すべての宗教、すべての集団と人にまつわる、日本の民主主義の危機」と語った。
鄭氏はキリスト教信徒の家庭に生まれ、信仰を継承し、徴兵を経て除隊後に統一教会に改宗した人物だ。シンポジウム後に鄭氏と話をした。最終的に解散せざるを得なくなったら粛々と受け入れるという鄭氏の発言から、民主主義の危機論を持ち出して大袈裟な表現で同情を買おうとしたのではなく、真摯に情勢を憂慮しているのが分かった。
以前から語ってきたように、私も糾弾報道や差別肯定を家庭連合に留まらない問題であると訴えてきた。だから、このことで誹謗されても、信徒ではないにもかかわらず問題を指摘し続けてきたのだ。
家庭連合の次に、他の人や集団が社会の域外に押しやられ、国のお墨付きを得て差別を「対策」とされる日が訪れるだろう。おかしいと気付く人はいても、自分も社会の外へ押しやられるのではないかと同調圧力を恐れて口をつぐむ。国家によって対策のため人権が剥奪されてしまっても、誰も助けてはくれないのである。
編集部より:この記事は加藤文宏氏のnote 2025年5月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は加藤文宏氏のnoteをご覧ください。