黒坂岳央です。
一時期、FIRE(Financial Independence, Retire Early)という言葉が流行り、SNSやYouTubeでは「30代でリタイアした」「資産5000万円で自由に生きる」といった話が聞こえて来るようになった。
人生は有限だ。もちろん、早期リタイアを目指すこと自体は否定しない。だが問題は、「FIREは誰でも確実に実現可能なライフスタイル」として広がってしまったことだ。少なくともこれまではそうだった。
だがはっきり言う。これからの時代、フルFIREの難易度は劇的に上がる。もちろん、未来のことは誰にもわからないし、予測が外れるかもしれない。だが、それはこれまでも同じだったはずであり、重要なのは「願望通りにいかない可能性をあらかじめ想定し、備えること」である。
その理由を、個人の気合いや理想論ではなく、市場原理とマクロ経済の変化を根拠に、ファクトベースで論理的に説明していきたい。
※FIREといっても様々な形態があるが、記述がないものは基本的に「ファットFIRE、フルFIRE」を指している前提で読み進めていただきたい。
champpixs/iStock
インフレがFIREの難易度を高める
前提として、FIREに必要な資産額は「年間支出の25倍」が目安とされている。たとえば、年間生活費が200万円なら必要資産は5000万円。300万円なら7500万円。これがいわゆる「4%ルール」である。
だがこのルール、実は前提条件が非常に脆い。
「インフレが低く、市場が年5〜7%で安定成長し、医療費などの突発コストが少なく、人生が90歳で終わる」
という「複数の仮定」で成り立っている。確かにこれまではこのような想定が現実的だった。しかし、これからはわからない。仮定が外れたシナリオまで想定しておくことは、精神安定上も必要な仕事である。
ここで改めて世界の現状認識をしてみよう。欧米は過去30年で最大級のインフレに見舞われ、日本ですら物価上昇率が前年比3%台を超えてきており、この原稿を書いている時点では「G7で最もインフレ率で、4月のコアCPI上昇率は3.5 %と極めて高い状況」だ。「安い生活費の日本」は、これからは過去の話になる可能性もある。
インフレが進めば進むほど、FIREで設定した「支出×25」のロジックが崩壊する。資産はあるが、取り崩すペースが追いつかない。「気づけば資金ショート」が現実になるわけだ。
もちろん、いきなり大恐慌が起きれば、消費が抑制されインフレ予想も変わる可能性はある。だが、それはそれでFIREの難易度を高める。「ただインフレにさえ気をつければいい」という話ではないのだ。
「失敗したら労働すればいい」は通じるか?
「FIREしたあとに、好きなことで稼げばいい」という人がいる。それ自体は確かに正論だ。しかし、この正論も今後はわからなくなった。
その理由はAIの進化が我々の想定を遥かに超える速さで起きているということだ。すでに多くの業務が自動化され始めている。
ゴールドマン・サックスの試算では、世界で約3億人の仕事がAIの影響を受けると言われている。この予想も上振れするかもしれない。これは裏を返せば、誰もがいつでも仕事を得られる時代ではなくなるということだ。
特に、「事務作業・翻訳・会計・ライティング」のような”スキルがあっても代替しやすい職業”は、真っ先に機械に置き換えられていっている。実際に、米国ではAI失業が現在進行系で進んでいる。FIRE後に何らかの理由で労働に戻りたくなっても希望の職種につくことは非常に難しくなる未来も考えておくべきだろう。
海外の事情はどうか?
「日本がダメなら海外移住してFIREすればいい」という声もある。実際、生活費の安い東南アジアやタイへ移住もひところ流行った。だが、その海外が今やFIREには向かない環境になりつつある。
アメリカでは医療費は年々高騰し、まともな保険に入るだけで年間100万円を超え、家賃も高い。欧州は社会保障は充実しているが、その分、税金が重く、富裕層への課税強化も進行中だ。また、東南アジアやバンコクやバリ島などは外国人の流入で家賃が急騰。格安移住の幻想は崩れつつある。
どこに行っても、インフレ・税制・医療の壁が立ちはだかってくる。本稿は「日本ではフルFIREが難しくなる」と言っているのではなく、「全世界でフルFIREが難しくなる」といっているのだ。
現時点ではベトナム、フィリピンやジョージア、アルバニアなどの新興低コスト国は残されている。だが、10年後は誰にもわからない。
「一定額の資産を確保できれば、世界中どこでも自由に働かずに生きられる」という理想的な人生戦略は、慎重に見直すべき時期に来ている。
AIは労働を開放するか?
一部では「もうすぐAIが労働から人間を解放してくれる」という話も出てきている。実際、最近のChatGPTやGemini、各種ロボティクスの進歩を見ると、確かに人間の出番は減るかもしれない。だが、テクノロジーの進化=FIREの実現ではないことには留意する必要がある。
というのも、「AIが代わりに働いてくれる社会」は、同時にその利益をどう分配するかという制度設計が必要になるからだ。
現実は、今のところAIの利益は巨大企業と一部の資本家に集中しており、「みんなが働かなくても食っていける」社会になるにはまだ何段階も先の話だ。
「AIがあるからFIREも簡単になる」「すべての人間が労働から開放され、暇つぶしが最大の課題。労働は贅沢品」という考え方は、少なくともこの10〜20年のスパンでは非現実的だ。
FIREの真価
ここまでFIREが難しくなる理由を述べてきたが、これは絶望させるために書いているのではない。むしろ、重要なのは「フルFIREだけにこだわらず、真価は柔軟な働き方にある」という柔軟な発想だ。
・月5〜10万円程度を稼ぎつつの「セミFIRE」
・投資収入+軽い副業で暮らす「バリスタFIRE」
・若いうちに資産を作って、50代以降は選択労働する「コーストFIRE」
フルFIREをやめてこうした“中間解”を選ぶ人たちは、すでに現れてきている。むしろ、現代における本当の贅沢とは「働かない」ことではなく「働くことを選べる自由」なのだ。
◇
時代は常に変化していく。そして未来は誰にも予測はできない。専門家もそうだし、個人の人生設計という予測も同様だ。そんな中で、「FIREこそ人生の正解」と信じ切って突き進むのは危うい兆候が出てきた。
必要なのは、どんな時代でも生き残れる力=“柔軟性”と“適応力”だ。フルFIREに固執せず、自分なりの働き方や稼ぎ方を模索し、資産とスキルを掛け合わせていく。ことが最も合理的で健全な戦略なのではないだろうか。
■最新刊絶賛発売中!