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ついにその時が来た――日経の記事が象徴するように、アメリカは日本に対し、防衛費のさらなる増額、すなわちGDP比「5%」を求め始めた。これは、半世紀以上にわたり現実から目を背けてきた日本への、事実上の「最後通牒」である。
この50年間、日本人の多くは「平和国家」という幻想の中で眠ってきた。「思いやり予算」や「基地提供」さえあれば、同盟の責任を果たしていると思い込み、国防のほとんどをアメリカに依存してきた。しかしそれは冷戦時代の産物に過ぎない。私は30年前の講演で、「冷戦後のアメリカは、もはや理想主義者ではなく、世界の民主化に失敗し、コスト重視の現実主義国家に転じる」と警告していた。いま、その現実が突きつけられている。
日本の防衛費は長年、GDP比1%にとどまり、国会で議論が始まるたびに「軍拡反対」「平和国家の理念だ」と叫ぶ野党やメディアが世論を煽ってきた。岸田元首相は国会審議を避け、閣議決定のみで防衛費2%をバイデン大統領に約束した。しかし財源は確定しておらず、実現も不透明である。当時、ワシントンでは「2%では足りない。3〜5%が当然」とする見方が支配的だった。
より本質的な問題は、日米安保条約における異常な「片務性」である。アメリカが攻撃されても、日本は「9条がある」「平和主義だから」として、集団的自衛権の行使を拒否できる。すなわち、「守ってほしい、だが自分は動かない」という、世界の軍事史に類を見ない非対称的な同盟である。
筆者は過去30年以上、ワシントンはもちろん、NY国連、欧州NATOの軍事関係者と話した。こんな「自分は9条で動かない」という同盟関係などあり得ないと、ほぼ全員が言った。
安倍元首相が導入した限定的な集団的自衛権も、その内容は極めて抑制的だった。それでも多くの国民が反発し、デモが起き、内閣支持率は10%以上下落した。「日本人には、自国を守る覚悟がない。もし覚悟があるなら、米国有事でTVを見ているだけなどありえない」――この現実が明らかになったのである。しかも、安保法制には「日本の存立が脅かされる場合に限る」という条件が付されており、米国の有事で日本が動くことはない。法案成立直後の時は米国は喜んだ。だがその後、実態を知った米国は失望している。
台湾有事の可能性が高まり、尖閣や沖縄にも戦火が及ぶリスクが現実味を帯びる今、日本が直面しているのは、「自国を自分で守る意志があるのか?」という根源的な問いである。米国は、自ら血を流す覚悟のない国を本気で守ることはない。ウクライナが示したように、「自ら戦う意志」が支援の前提条件なのだ。
すでにトランプは政権を奪還しており、彼の外交姿勢は一貫して「自分とアメリカ・ファースト」である。尖閣や沖縄が侵略されても、軍事介入ではなく、300%くらいの関税で終わる可能性すらある。中国にとっては、「戦わずして勝つ」理想的な展開だ。
だからこそ、いま必要なのは「依存」ではなく「自立」である。日米安保条約は、1年前に通告すれば破棄可能な条約である。米兵暴行事件、地位協定の不平等や思いやり予算の過大さを批判しながら、「条約破棄」という本質的な議論を避けてきた現在の姿勢は、無責任の極みだ。
ウクライナはNATOに加盟していなかったために侵略された。では日本もNATOに入るべきか?という議論もあるだろう。だが、NATOを含め、どの軍事同盟であっても、日米安保ほど異常な「片務性」が認められている例は存在しない。「守ってもらうが、自分は戦わない」――そんな構造は人類史上に前例がない。
この構造を一部でも正そうとしたのが、石破茂元防衛相の「アジア版NATO」構想だった。地域の集団安全保障という観点からは画期的だったが、国民の無関心と政治の怠慢により立ち消えとなった。地位協定の改定も同様である。
もはや、アメリカが自ら安保条約を破棄する可能性すら視野に入ってきている。「同盟」とは、命を預け合う相互の信頼関係であり、「自分は戦わないが相手には守ってもらう」という日本の姿勢は、いかなる同盟でも容認されるものではない。
米中対立の激化、多極化する国際秩序、民主主義の退潮、アメリカの内向き志向――日本を取り巻く地政学的現実は極めて厳しい。このままでは、いつか手遅れになる。
だからこそ、いまこそ問う。「自立」とは何か。その問いを、国民一人ひとりが自らの問題として捉え、議論し、決断すべき時が来ている。
国家の生存を決するのは、条約でも政府でもない。「国民の覚悟」である。