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前稿「進次郎大臣に代わって考える『コメの価格』と『農機のリース』」を読んだ知人から、「田植え1回 収穫は2回-『にじのきらめき』 広がる作付け-」(7月5日付『朝日』記事)の写メが到来した。拙稿で、台湾の「稲作は二期作」、「蓬莱米(ジャポニカ米)」が生産量の「9割を占めている」などと言及したからだ。
記事は、国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)が18年に開発した、暑さに強く味もコシヒカリ並に良い「にじのきらめき」なる品種に、「再生二期作」の期待が掛かるというもの。「再生二期作」では、春に田植えして夏に一期目を収穫し、残した稲の切り株から生えてくる「ひこばえ」の「再生稲」を晩秋に再び収穫するという。
ポイントは一期目の稲刈り時に切り株を高めに残し、二期目の稲に栄養を行き渡らせることだという。これにより農研機構は21年~22年、通常の1.5~2倍(単位面積当り?)の収穫に成功したそうだ。「ただ、切り株を高くする稲刈り機が必要」とあるが、最近の自脱式コンバインは容易に切り株の高さ調整が出来る。
話を「蓬莱米」に進める前に、内閣広報室のサイト「稲の品種改良の歴史と今」からその要旨を紹介しておく。
日本の稲作は約3千年前に始まるが、明治期までは稀に起きる突然変異で生じた変種の中から選抜するなどの品種改良だった。政府は19世紀末に農事試験場を開設、収量性や耐病性耐冷性などを遺伝学に基づいて向上させる本格的な品種改良に着手する。こうして1921年、冷害に強い品種と味の良い品種とを交配して優良品種「陸羽132号」が誕生した。
現在、日本で栽培されている300以上の品種の中で、33.9%(19年)と最も多い作付面積を占める「コシヒカリ」は、この「陸羽132号」の孫として1956年に開発された。以下、「ひとめぼれ」、「ヒノヒカリ」、「あきたこまち」、「ななつぼし」と続く品種は、全て「コシヒカリ」の子孫である。
以上だが、この話には「銘柄」という語が出て来ない。そこで農水省サイトの【品種銘柄の設定】の項を見るとこうある。
5 銘柄については、農産物規格規程(平成13年農産水産省告示第244号)において「品種銘柄」、「産地品種銘柄」等の区分が規定されており、具体的には、「品種銘柄」については品種名のみを特定して、指定され、「産地品種銘柄」については道府県名と品種名を特定して、例えば「新潟県産コシヒカリ」などという形で指定されている。現在、水稲うるち玄米では、品種銘柄に指定されたものはなく、産地品種銘柄が870程度指定されている。
何とも珍紛漢紛なので、Wikipediaで「コシヒカリ」の項を当たると、次のように記してある。同じ「コシヒカリ」という「銘柄」であっても、遺伝学上の「品種」が同じでないことがある、ということなのだろう。
品種特性・・コシヒカリという品種は1つであるが、コシヒカリという銘柄(消費者が買う段階の商品名)にはコシヒカリ(品種)と多数の品種を含むコシヒカリBLという品種群が含まれる。現在、「新潟県産コシヒカリ」という銘柄は、9割以上がコシヒカリBLという品種群であり、コシヒカリ(品種)とは異なる。
蓬莱米
台湾には「蓬莱米の父と母」がいる。磯永吉が「父」で末永仁(めぐむ)が「母」だ。共に1886年生まれだが、福岡県筑紫郡出身の末永が大分県三重農学校から県の農事試験所に進み、1910年に台湾に渡った叩き上げなのに対し、広島県福山市生まれの磯は東北帝国大学農学科(現北海道大学農学部)を卒業し、翌12年3月に渡台したエリートだ。
児玉源太郎総督は1901年、米の「所産三倍ならしめ」「細民共に三餐に飽き、尚ほ剰す所を以て之を海外に輸出する」とコメの増産を訓示し、10年には、総督府が「米種改良事業計画」を定めた。末永が嘉義農場の技手職として渡台したのは真にその年だった。
大学を出て妻も娶った磯が、台北の総督府農事試験場種芸部の技手として赴任し、その後の45年に及ぶ台湾生活の幕を開けた12年12月、渡台から2年が経った末永の論文が、嘉義庁農会(農協)主催の「第一回技術員製作品展覧会」で一等賞を獲った。
論文は、在来米の改良に対する問題点を指摘すると同時に、内地米普及の可能性にも言及していた。このことから判るように、コメの改良を台湾の在来米(インディカ種)で行うか、それともジャポニカ種の内地米で行うかが、10年来の議論になっていたのである。
在来米は、赤米や烏米(育成不良で変色した米)などによる歩留まり落ちを考慮しても内地米に比べて3割方収量が多く、価格面で本島人に向いていた一方、食味が日本人に合わず、輸出しても内地三等米の半値だった。が、慣れない内地米の試作に台湾農家が度々失敗していたため、総督府は在来米の改良を主とし、内地米の改良を従としたのだった。
ところが、14年の第二回「展覧会」でも「内地種が台湾での裁判に適しており、将来普及すべき」とする末永の論文2本が、335本の中から一等に選ばれた。その審査員の中に、翌15年台中農事試験場に技師として転勤することになる磯がいた。二人がついにお顔を合わせたのである。
磯は、当初1千種を超えていた在来種の多くが選別・淘汰されつつあったものの、未だ内地米に匹敵する品質に至らなかったため、稲作に適した気候や土壌を有する、そして末永の居る嘉義に近い台中行きを志願したのだった。その年の暮れ、末永も磯の下に異動した。
磯が先ず手掛けたのは在来種の系統を分離して、「純系育種」を作ることだった。それまで品種改良されて来た品種は須らく数十の品種の混合であったため、優良育種の系統のみを選んで品種改良の原種にしようと考えたのだ。
台中でも末永の姿は、朝から晩まで田圃にあり、また実験台にあった。3年が経ち、彼が弱冠32歳で主任技師になる18年頃には、在来米の改良に大きな進展がみられた。在来米の純系育種と内地米を掛け合わせることで、在来米の品質と生産性を向上させる段階に入っていた。
そうした19年5月、磯は1年半の欧州留学を命じられる。これまで細々と行われていた内地米の試験栽培でも良い結果が出始めた頃で、九州の「中村」などの品種が好成績を上げつつあった。磯の留守を任された末永は、この時、内地米にとって非常に大きな発見をする。
内地米を台湾で栽培する場合、在来米で使う苗よりも若い苗で田植えする方が、良い成績を上げるというもの。苗代期を短くして出穂までの日数を稼ぐことで、丈の高い稲になるというのである。以来、この「若苗」の方法が今日の「蓬莱米」栽培の標準となった。
一方、留学を終えて帰国し、21年8月に総督府中央研究所農業部種芸科長になった磯は、渡台直後に登った台北郊外の陽明山南麓の盆地「竹子湖」に、内地米の原種田を設けた。内地米でも「純系育種」を求めたのである。盆地なので在来種との交雑や病虫害も防げる上、低湿度ながら雨量豊富、肥沃な地質は九州に似ていた。「中村」もここで好成績を上げた。
二期作にも成功し、台湾全島に普及した「中村」は内地にも移出され、歓迎された。斯くて第10代伊沢総督は26年4月、これら内地米を「蓬莱米」と命名した。が、話はこれで終わらない。「中村」には「いもち病」に弱いという難点があったのだ。病気に強い内地米が切望された。
これに応えたのが末永だった。24年に内地種の「神力」と「亀治」を交配して好結果を得、なお膨大な実験栽培を続けていた27年、実験田の65番目の畝に育ちの良好な稲を発見する。収穫量も多い上、病気に強く育て易い「台中六十五号」がここに完成したのである。
先に「コシヒカリ」という「銘柄」の祖先は「陸羽132号」という「品種」と書いた。同様に「蓬莱米」という「銘柄」のルーツは「台中六十五号」という「品種」である。が、その誕生前に「蓬莱米」の命名が「中村」などの内地米に対してなされていた。つまり、台湾産ジャポニカ米の「銘柄」そのものが「蓬莱米」という訳である。
なお「蓬莱米」については、早川友久氏の「磯末吉と末永仁―蓬莱米を作り上げた農学者―」(『日本人、台湾を開く』まとか出版、2013年1月刊)を参考文献とした。