「運のいいことに金沢にいても輪島の住民票が取れるようになった。やればできるじゃないか」という発言のどこが問題なのだろう。
厳密に言えば「運のいいことに能登で地震があったでしょう」と述べ、「金沢にいても輪島の住民票が取れるようになった」「やればできるじゃないか」という発言までは少し間があるが、これって普通に日本語を読めば、「能登の被災が運が良かった」と読む人はいないだろう。いるとすれば、日本語ができない人か悪意に満ちた人ではないか。
この参院予算委員長の肩を持つつもりは毛頭ないが、参議院選挙を前にして、ほとんどが後段を報じない報道姿勢を見れば、これこそが、「切り取り」の典型的な例だろう。
原発の被災可能性のある地域などとの比較でもないので、能登であろうとどこであろうと、普通に考えれば、地震があったことを運が良かったと思う人がいるとは到底思えないのであるが、そういう「常識」を持った耳でこの発言を最後まで聞けば、能登のところで詰まった感はあっても、「運のいいことに」という言葉が「能登の震災」ではなく「住民票云々」にかかることは理解できるはずである。
そういう意味では、「運のいいことに」の後に「能登」の話を挟んだのは政治家の発言の仕方としては不用意だったかもしれないが、それは切り取って報道する人に揚げ足を取られられかねないということに思い至らなかった、という点で不用意ということであり、それを後段を聞いた上でも批判的に論評する人は「私は日本語がわかりません」か「私はこの人を攻撃したい」と宣言しているに等しいと思うがいかがだろう。(危機管理としては稚拙だが)謝罪会見でムスッとしていたのも理解できる。
さらにいえば、能登の地震があったにもかかわらず、金沢で住民票が取れるようになったことは「運」よりも関係者の皆さんの努力の方がすごかったからなのだろう、と私は思う。
しかし、彼が「頑張った結果うまくできたとしても、普通に考えれば地元の皆さんが頑張っても無理だったかもしれないことを成し遂げられた」と思ったので「運が良かった」と表現したのだ、ときちんと彼の日本語を理解したうえで、そのうえで「運」という言葉を使った言い方は稚拙であるとして、そこをマスコミは非難しているわけではないのである。
マスコミなどの報道はコメンテーターや専門家も含め「能登の被災を運が良かった」と理解した人ばかりにコメントを求めており、住民票を取れるようにシステムづくりを頑張った人のコメントは聞こえてこない。
つまり、「能登半島地震が運がいいと言ったのではないことはわかっているが、現場の皆さんが頑張ったことが『運』という稚拙な一言で矮小化されたが問題なのではないか」という形で非難をしているのではないことがマスコミの報道を見ればわかる。
私自身はこの発言をした方がどういう方か知らないが、強いて言えば、能登の話を枕に「地元の頑張りに加え幸いにも・・・」と言えば良かったのかもしれない、とは思う。でも、やはり「運良く能登が被災した」という解釈として報道したいのであろう。
しかも、気になるのは、一部の報道はちゃんと後の発言を伝えているので、まともな人なら発言の趣旨は理解できると思うのだが、実はそうではなっていない、ということである。その理由は、報道を見ると、この後段を聞かせた上でも畳みかけるようにその後で「能登の被災が運が良かった」と幾度も誘導しているからであろう。視聴者に理解力がないと思わないのだが、ここまで切り取った趣旨で非難されると、誤解は定着するものかもしれない。
なんだかなぁ、というのが正直な感想である。マスコミは、参議院選挙前にここまでして、与党の悪印象を持たせようしている、と考えるのは考えすぎだろうか。
ま、私の過去の投稿に対するコメントを見ても「Aではない」と前置きして話をしているのに、Aを前提にコメントされる方も複数おられるので、マスコミによるこういう切り取りの多い繰返しを聞けば、普通の視聴者ならなおさら誤解するのもしかたがないかもしれない。でも、やはり、むりやりそこへ誘導するのはいかがなものだだろう。
選挙のたびにマスコミは、「自分たちマスコミは、ファクトチェックが厳しいうえに公平に報道しないといけない、しかも報道には時間の制約もあるので、SNSに勝てないのだ」という説明をしているが、こうして言葉を切り取って報道することがマスコミの言う「時間の制約もあるので、短くして報道して公平性を保ちました」ということだろうかと思うと悲しくなる。
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田中 奏歌
某企業にて、数年間の海外駐在や医薬関係業界団体副事務局長としての出向を含め、経理・総務関係を中心に勤務。出身企業退職後は関係会社のガバナンスアドバイザーを経て、現在は隠居生活。