色々あって最近少しx(Twitter)に触れる時間が減ってきたんですけど、久々に見るとほんとさらに「ヤバさ」増してるんじゃないか、という感じになってますよね。
特に、「フォローしてる人のポスト」じゃない方の、デフォルトで必ず読まされる「おすすめ」の方のタイムラインを流れてるポストの方がやばくて、なんかこう時間帯によっては、半分?それ以上?が全部陰謀論なんじゃないかっていうレベル(笑)
しかもなんか、たった数年前と比べても、手軽なアテンション狙いですごい雑なバズらせかたしてるポストが増えたんですよね。
政府発表のなにかとか、ちょっとしたニュースとかを持ってきて、それを最大限曲解して犬笛吹くみたいなポストが万単位の「いいね」を集めていく。
そういう「バズ」に返信が来たらそれに答えるとアルゴリズム上有利なのでめっちゃ雑に返信しまくってる場合が多いんですが、場合によっては「これデマですよ」という指摘に「わかっとるわいクソが!その上で警戒しましょうっていう意図なの!」とか答えててw、デマだとわかった上でバズらせてやるという野心を指摘されて真顔に帰っちゃう人間という謎の情景に人々の感情が数万「いいね」分ガンガン吸い込まれていくのはいったい何を見せられてるんだという気持ちになりました。
さすがに数年前ぐらいまでは、保守派にしろリベラル派にしろ「本気で」それを信じて、それなりの一貫性を持ってポストされてるものが順当に?万バズしてたけど、今はむしろすごい即席的な「こう煽ったらバズるぜ」的なやっつけ仕事がめっちゃ増えてて、かなり末期的な感じになってきたんですよね。
まあ僕は大事な仕事の告知ツールでもあるから辞めるわけにはいかないけど、アレをどれぐらい皆は「真に受けて」生きているんだろうか・・・というのはちょっと心配になってしまいます。
「まあこういうのはバズらせるための嘘だからって最初はわかってたけど、だんだん知らずしらずのうちに影響受けたりとか・・
それがもたらす自分自身への良くない影響って計り知れないぐらいあるな、と最近感じているという話を聞いて下さい。
1. 知らず知らず「SNS用の武装」前提に生きている
個人的に、「敵とも話せるSNS」=「メタ正義をベタにやるコミュニティ(めたべた)」っていうのを約二ヶ月前にはじめたんですよね。
以下からご入会いただけます。
上記入会ページでもだいたい語ってるけど、だいたい以下のようなコンセプトの場を目指しているんですが・・・
「メタ正義をベタにやるコミュニティ」(めたべた)では、どんどん治安が悪くなる”オープンなSNS”からの避難所を提供します。
突然罵倒されたりしない安心感のもとで自分の気持ちを吐き出したり、立場の違いを超えて意見を交換したりといった、昔の「ネット黎明期」にはあった可能性を再度信じられる場を目指します。
そうすることで、罵りあいが溢れ何の前向きな知恵の持ち寄りもできなくなっている今の日本社会に対する『レジスタンスの拠点』を作っていきます!
例えば、x(Twitter)では全力の殺し合いに発展しているような話題でも「めたべた」の中ではもう少し冷静に逆側の人の事情も理解しながら議論したりできるんじゃないか・・・という趣旨の「コソコソディスカッション(コソD)」スレッドというものとか・・・
あと、無駄に煽りまくらないと読者が獲得できない今のSNS環境では、「バズに魂を売るかそれとも誰にも読まれずにいるか」の二択みたいになっちゃってるわけですけど、そういう人が「読者」と「議論の相手」を獲得できる場所としての「読んで!スレッド」というものとか・・・
結果として
・「x(Twitter)で出会っていたら絶対敵だった」タイプの人とも丁寧に時間を共有しながら相互理解が深まる基調な場に育ちつつある
し、
・「noteに力作放流してたけどほとんど反応がなかった」タイプの人の投稿がめちゃくちゃ盛り上がって熱い議論になったり
・・・と『狙い通り』に育っていきつつあるんですが、その「狙い通り」の変化に対する副産物としてすごい意外なことなんですが、
「埋もれていた過去の記憶」がなぜか日々思い出されるようになった
・・・という人が沢山いるんですよね。僕もそうです。
なんか、僕は結構数ヶ月前の事もどんどん忘れていくような人格だったんですが、「めたべた」でいろんな人の話を聞いていると、すごい昔の話を沢山思い出すようになってきたんですよね。
そういえばこの曲好きだったな、ああ、この本に感動したことがあったな、そういえば学生時代こういうことがあったな・・・という記憶が前触れもなく沢山記憶の底から出てくるようになった。
そういう「ナマの記憶」が戻って来ると同時に、「SNSでこう振る舞えばウケる」的に染み付いていた自分の感情や物語のパターン自体が解体されてくるのを感じてます。
例えば8月半ばの「戦争反省キャンペーン」の中で「こういう発言すりゃウケる」と思って用意していたnoteのネタとかもあったんですが、なんか
まあもういいやこういうのは
って気分になっちゃって。
それで一瞬数万バズになるようなから騒ぎを起こせたからどうなんだ、その「先」はあるのか?みたいな冷静になりかたしちゃって、でもそれは決して悪いことではなかったなと思っています。
2. 「敵」とも話せるとはどういうことなのか?
「めたべた」内には、「xで出会っていたら敵だった」という組み合わせの人も結構いるはずなんですよね。
時々「意見の対立」が明確化して討論になっている時には「敵」要素があることを思い出したりもする。
ただ、めたべたでは「敵」である以前に「一人の人間」なので、「党派対立」以前の「その人」をリアルに理解するという体験になるんですよね。
例えば「表現規制問題」みたいな課題でも、「表現規制反対派の女性」って外部SNSではめちゃ不可視化されてるんですが、そういう当事者の目線からすると、「戦うべき敵は米国の宗教保守派とかであるはずが、なんかそれと関係なく”女叩き”になってきて、原理主義者のフェミニストとアンチフェミニスト以外の存在が抹殺された場になってしまう」みたいなことを言っていて、すごいなるほどなと思ったりとか。
「経済格差問題」とかでも、「僕の本とこの人の本を両方読んで感銘受けるってことあるんだな〜」と思うような人の本を読んで、感想を述べている人とかがいて、「社会を良くしたいという意味では党派とか意識されないんだな」と我に返る部分があったりとか。
単純にいうと「敵」でなく「その人」がわかるようになると、「わかりあえなさ」自体がわかるようになるんですね。
「意見の違いがなくなる」というのではなくて「意見の違いの理由と、その背後にあるその人が大事にしたいと思っている価値観や体験」がわかるようになる。
結果として、x(Twitter)とかで暴れてる意見の背後にも「人」がいるんだな、という感じがしてくるというか、ただそれをさらに煽るというのではないコミュニケーションをしていかなくては、という方向に自然と変わってくる面があるのかなと感じています。
3. 「嘘があふれる」時代になると、「真実」が求められるようになる
xの最近の治安の悪くなりようは、かなり「嘘くさすぎる」ので、逆に新しい流れを生み出す前兆になるんじゃないかと感じてます。
例えば排外主義系のバズ一つ取ってみても、あまりにも雑なバズらせ方しまくってるせいで、一定程度我に返ってる人を見かける感じがする(笑)
例えばインドで受注した新幹線の研修でインド人が日本に来ているんですが、それについて誤解して騒いでるSNSに対して「おいおい」って突っ込んでるポストなんかがかなり伸びるようになってきた。
例えば「反・排外主義」的にずっと活動してきた人とかが、「敵」の排外主義バズらせアカウントを見ていると、ほんの数年前までは「保守派側なりにスジの通った」意見だったのが、今はもう本当に「ただバズればいい」型の安易なポストが溢れてる現状を見て、「なんかさすがにオカシイな」と気づくようになっている。
保守派側から見ても、とにかく「排外主義だからって日本の外交戦略上非常に重要な施策ごと全部破壊しようとするようなバズり方」に対して違和感を覚えてる人がかなり多くなってきている。
結果として、僕が10年以上前から使っているこの図のように、「右と左」に「コンセンサスが取りやすい点」が2つバラバラにあった状態から・・・
こうやって「真ん中に集まってくる」流れが徐々に見えてきていると思います。
元々「2つの凸」の中にいた人が、「さすがに”こんなの”と一緒にされたくない」という形で我に返って、真ん中に吸い寄せられる新しい流れをいかに起こせるかが大事。
そういう意味で「xのようなオープンSNSの末期的状況」は、「必要な大きな変化の前触れ」として存在しているのだ、という感覚が大事だと思います。
「めたべた」のようなクローズドなSNSで「敵」を「人間」そのものとして知りつつ、「そもそも分断されてない新しい意見」を提示していくハブになれれば、それが「崩壊状態のオープンSNS」がもたらす「大きな状況変化」に繋がっていくはず。
なんだかんだ日本はもうただアホみたいな意見対立で時間を浪費してられなくなってきてるので、「SNSバトルのためのSNSバトル」とは距離をおいて、「敵とも話せる」をやっていく流れの先で、新しい共有軸を作っていく仕事ができればと思っています。
4. どんどん「本来の自分」が取り戻されてくるSNS?
「めたべた」は、「敵とも話せる」をウリとして、いろんな他人との本来的なコミュニケーションを取り戻そうとする取り組みだったんですけど、なんか最近はむしろ「本来の自分を取り戻す」取り組みになってきてるなと感じてます。
「SNSバトル用の武装」とか「こういう方向にすればウケるからそこまで本心でもないのに染み付いてしまった手癖の意見」とか、そういうのがだんだん自分の中から消えてくる場になっている。
以前の自分が抱えていた「思い」とか「好き」とかいったものが回復してくる場になっている。
それがどういう意味を持つのか?はもう少し長いこと時間がたたないとわかりませんが、少なくとも社会の良くない変化とか治安の悪いオープンSNSに引っ張られずに、「今必要なことは何なのか」に立脚して生活できるヨスガになってる感じではあります。
とはいえ、別に「オープンなSNS的話題」から切り離されて引きこもってるわけではなくて、いろんな「めたべた内にいる他人」と経由して「オープンなSNSの話題」も間接的に触れてるんですよね。
でも、「xのようなSNSで敵として触れる」んじゃなくて、「めたべた内にいる人」経由で「自分とは違う世界」に触れているので、それが「敵・味方」の論理ではなくて「単に世界が広がる」現象として理解できる。
2ヶ月前にはじめた時には「こういう場」になるとは思ってもなかったですけど、最近は日々自律的に成長していく「めたべた」のコミュニティの熱に引っ張られて生きているような感じになっています。
オシロ社というベンチャーのシステムを使ってるんですけど、ここまで「テキスト」で会員の思いや考えがどんどんアップされているコミュニティは珍しいらしい。
百数十名からまだちょっとずつ増えていってる感じですが、これを読んだあなたもピンと来たら仲間になっていただければと思います。
以下入会ページからどうぞ。
単に「ROM専(読みに来るだけ)」の人も結構いて、その場合、週3ぐらいで僕が公式ダイジェストという短いエッセイつきの記事を配信しているので、その部分だけでも「おねだん」以上の価値を感じていただけるようになっていると思います。
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つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2025年8月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。