危機の時代に必要な調整役からの脱却:伊賀泰代『採用基準』

マッキンゼーの採用マネジャーを務めた著者が記すリーダーシップ論。

そもそも、日本社会で「リーダーシップ」という概念が正確に理解されていないことが山積する社会問題の根源的理由であるとし、同概念の本質的な理解の重要性を説き明かす。

「採用基準」の核心をリーダーシップと据えることの意味は、マッキンゼー就職論をこえて、日本の経済社会の混迷さを打開するキー概念としてリーダーシップを据えているからだ。

1. リーダーシップの要素

筆者いわく、リーダーシップとは、制約ある情報環境下の中で、成果の達成のため、物事を判断する適切なタイミングを特定し、メンバーにその重要性を説明し、責任をとる人物である(筆者のいう、リーダーの4要素:①目標を掲げる;②先頭を走る;③決める;④伝える)。その他、結果として恥や損を受け入れる受容性の高さもリーダーの素質とあげている。

筆者は、チームの全てのスタッフやセクションに角が立たないように調整し、和を重視するのはリーダーはないとする。強いて言えば日本的リーダーと評価できるのかもしれないが、その本質は、コーディネーター、幹事あるいは世話役であって、リーダーではない。

「交渉を仲介する人が調整役です。・・・しかし、この人は調整役ではあるけれど、リーダーではありません。なぜならこの人は、組織としての高い成果よりも、関係者の気持ちや組織の和を優先して行動しているからです。・・・リーダーとは『成果目標を達成するために組織をひいきいる人』です。『成果目標に関しては妥協してもいいので、関係者全員に角が立たないようにする』のはリーダーシップではないのです。」

(104頁)

2. 日本社会の「リーダーシップ」理解

日本においては、経験や年数、実績に応じてあてがわれる役職とリーダーが同視されがちであると筆者は説く。年功序列を昇進システムの基軸としている場合、勤続年数に応じて役職が上がり、その役職に相応の権能が付随するが、日本人はその権能をリーダーシップと捉えがちであるという。しかし、リーダーシップとは、客観的な役職とは関係のない「スキル」であり、そう振舞おうとする「心構え」ともいえる。

筆者は、日本では管理職とリーダーシップがしばしば混同されていると指摘する。管理職には、管理能力、リーダーシップ、プレーヤーとしての能力のすべてが求められており、リーダーシップがないにも関わらず、管理能力とプレーヤー能力が年功により蓄積された結果、リーダーシップも期待され管理職に就くことが慣行化している。この社会的慣行が、日本社会においてリーダーシップの概念を曖昧にさせている理由の一つであろう。

3. 日本社会の特性とリーダーシップ概念

筆者の言うリーダーシップ概念の本質は、限られた情報環境下で、反対者をかかえる状況下においても組織に大きな成果を与えるため、小さな犠牲をいとわず方向を決断することを意味する。

リーダーには、失敗や恥をかくリスクを許容し、成果を追求するために果敢に行動する素質が求められる。言葉遣いや進め方の是非といった表面的な手続きを首尾よくこなす者がリーダーではない。前述のとおり、それは「調整者」と呼ばれる。

以上のリーダーシップ概念は、どこか感覚的に欧米的なにおいを帯びる。問題はその概念の成否というよりも、日本社会や企業における組織経営や意思決定との妥当性を検討することである。終身雇用や年功序列的な慣行は、良し悪しは別として労働市場の制約性を高めることで失業率の上昇を防ぎ経済社会的に貢献してきた側面が指摘される。筆者の主張するリーダーシップ概念がこれまでの一般的な日本企業で求められなかった背景には、それなりの日本経済や企業経営上の条件が存在していたからであろう。

ただ、経営や地域課題が慢性的に放置される環境では、リーダーは従来の意思決定や慣行の軛を超えて問題を提起しなければならない。そのアプローチの重要性をチームと共有し、ときには反対派をねじ伏せる胆力も求められる。本書はそのような意味でのリーダーシップ概念を本質的と捉えている。本概念は、変革が求められる組織の、あるいは危機の時代におけるリーダーシップ概念といえるだろう。

本書が刊行されたのは2012年。そこから10年以上が経過するも、日本において本書の説くリーダーシップ概念の本質的理解は途上にある。その概念を丸々受け入れることが日本社会全体として幸せをもたらすと判断するのは今なお早計だが、このリーダーシップ概念は、危機の時代における組織指導論として、変革を求める企業や国家に新たな視座を提供するものである。


編集部より:この記事はYukiguni氏のブログ「On Statecraft」2025年9月1日のエントリーより転載させていただきました。