きょうは1985年のプラザ合意から40年目だが、私にとっては記憶に残る日である。当時、日米貿易摩擦が起こっていたが、これはレーガン政権が国内の不況を日本のせいにした身勝手な話だった。
レーガン政権の放漫財政がドル高の原因だった
当時1ドルが250円まで上がったのは、レーガン政権が富裕層向けの大減税をやると同時に軍備拡大をやって、大幅なインフレと財政赤字になったことが原因だった。おかげで長期金利は11%になり、世界中からアメリカに資金が集中し、ドルが上がって貿易赤字が増え、「双子の赤字」になった。
プラザ合意前後のドル円レート
この原因はレーガン政権の放漫財政だったので、それを軌道修正すべきだったが、どこの国でも減税は容易だが歳出カットはきらわれる。ドル高のおかげで中西部の製造業は競争力を失って不況になり、「ラストベルト」(さびついた工業地帯)と呼ばれるようになった。
こうした国内の不満を外に向けるため、レーガン政権は日本を非難のターゲットにした。日本の工業製品の関税はほぼゼロだったが、アメリカ製品が売れないのは「不公正貿易」のためだと難癖をつけ、連邦議会の議員が東芝のラジカセを議会の前で壊すジャパン・バッシングのパフォーマンスをやった。
東芝のラジカセを壊す下院議員
日銀の利上げは消費税の影響で遅れた
プラザ合意による先進5ヶ国(G5)の協調介入で、為替レートは急激に円高・ドル安になった。これは単なる協調介入で政策の変更はなかったが、ドルの過大評価が正常化したので、円は1ドル=120円と2倍に上がり、円高不況になった。
これに対応して日銀は公定歩合を史上最低の2.5%まで下げた。おかげで金余りになったが、ちょうど1985年の日米円ドル委員会で金融自由化がおこなわれ、大企業は割安になったユーロなど海外で借りるようになった。このため銀行は(それまで取引のなかった)不動産業者に融資した。
おかげで地価は1985年から急騰したが、物価は2~3%しか上がらなかった(これはドル安で輸入物価が下がったせいだった)。またタイミングの悪いことに国会では消費税法案が審議中で、リクルート事件もからんで大混乱だったので、法案が通るまで利上げするなと大蔵省は日銀に命じた。
当時の三重野副総裁は「乾いた薪の上に座っているようなものだ」と不動産バブルを心配していたが、大蔵省の天下りだった澄田総裁は消費税の上がった1989年4月まで利上げを封印した。5月にやっと利上げしたが、この年に3回も利上げしたのに地価の上昇は止まらず、たった5年で4倍になった。
日本経済新聞
1989年12月に総裁に就任した三重野氏は、2%以上も利上げして「平成の鬼平」と呼ばれたが、これはオーバーキルだった。さらに決定的だったのは、1990年4月の三業種規制(不動産・建設・ノンバンク融資の総量規制)である。これでマネーが行き場を失い、不動産バブルの崩壊が始まった。
…といった物語は、今ではリアルタイムで覚えている人も少ないだろう。10月3日からのアゴラセミナーでは、プラザ合意から40年の日本経済史を振り返ってみたい。