beast01/iStock
番組打ち切りの司会者、再び問題発言
先日、高市総理について「あんなやつは死んでしまえと言えばいい」と発言して番組打ち切りとなった司会者が司会をする日曜夜の討論番組があった。
「死んでしまえと言えばいいという言葉は野党に対する怒りで、誰に向けたものでもない。ただ『死んでしまえ』というのは申し訳なかった」と、言い訳にも何にもならない発言をしていたこの司会者が、有名な夜の討論番組で最初にどういう説明をするのかと思って見ていた。
しかし、全くスルーしただけでなく、「高市さんは選択的夫婦別姓に反対だった。こういう人が総理大臣になったというのは、面白いし、反時代的だね」と、打ち切り番組のきっかけとなった選択的夫婦別姓の意見を、何事もなかったかのように再度述べていた。
結局、この司会者もテレビ局も、ことの重大さを認識していないか、無視しているということがわかった。
問題の本質は「暴言」ではなく「扇動」
この名物司会者の最初の言い訳に「高市総理への謝罪になっていない」とか、「これにいちいち反応しない高市総理は太っ腹である」という意見があったが、勘違いしてはいけない。ことの本質はそこではないのである。
我々一般人ならこういう過激な発言もあるだろうが、今回問題となった発言は、有名なマスコミ人という、ある意味公人により発せられたものであり、しかも媒体は全国ネットである。
この超有名な言論人といわれる方の言葉は、その影響力からして、テロを誘発しかねないということが大問題なのである。
テレビを見る人の中には判断力の弱い人もいるのだから、「あの有名な司会者が『死んでしまえばいい』というのだからやりました」という輩が出てきたら、どう責任を取るのだろう。
「暗殺」と言えないマスコミの病理
確かにその番組は打ち切りとなったが、その発言を訂正も否定もせず、「不適切な表現」という言い方で煙に巻き、しかもその番組を打ち切りまでもっていった発言者を謹慎もさせずに、しれっと使い続けるマスコミとは何だろう、とあらためて考えさせられた。たぶん、このままではまずいと、テロの容認ではなく高市総理への暴言だということにして、放送法対策に矮小化し、その放送のみを打ち切ったということだろう。
驚いたことに、そういう発言がなされて番組終了が決定して間もない日曜夜のこの討論番組には、自民党の議員が出演していた。出演するのはいいが、自党の元指導者がテロで暗殺されたのだから、討論に入る前にこの司会者に「テロは容認できないこと」をはっきりと明言させるべきであった。
ことは高市総理の話ではなく、彼女が信奉する安倍総理の暗殺を追認していると取られかねない発言なのに…。ひょっとしたら自民党は、これが高市総理への暴言という認識しかできず、番組打ち切りで手打ちにすればいいと思ったのかもしれない。
そんなことでは人は扇動されない、一部の判断力の弱い人に気を使っていては彼の芸風になじまない、彼もそんなつもりで言ったのではない、というかもしれないが、マスコミのそういう姿勢がテロの容認につながるのである。
私のまわりで感じた例を少し話してみたい。
先日、大学の同窓と一緒になることがあったが、その女性は安倍政治には反対で、いわゆる統一教会問題に非常な怒りを持っているようで、彼女の話を聞いていればワイドショーで展開される意見に似通っているように見受けられた。
その彼女に私が「安倍首相の暗殺が…」というと、けげんな顔をし、「やられても仕方のない人なんだから…」というので、「殺されてよかったのか」と聞くと「殺されてよかった」とのことであった。
「人の命は何ものにも代えがたく大切だ」と、私から見ればちょっとお花畑のようなことを言うような、普段は優しいその彼女の一言に驚いて、それ以上話をできなかった。
法治国家であっても、許せない人を黙らせるためには殺してもいいという考え方が、ここまで広まっていることにあらためて驚いた。
もうひとつ言うと、安倍元総理暗殺後しばらくして、これも大学時代の別の同級生と話をしていて、「安倍総理の暗殺が…」というと、「暗殺ねえ…」と「暗殺」という表現に強く首をかしげられた。
どちらも国の最高学府を出て社会で長く働いた人の意見である。
とすれば、テレビの統一教会に関するコメントを見ている多くの方の中に、「殺してもいい」とまではっきり言わずとも、「あれは暗殺ではない」「安倍元総理が悪かったから仕方なかったのだ」という考えの方が実は少なくないように思う。
「暗殺」を「銃撃」と呼ぶ報道が生む危うさ
WIKIによれば、「暗殺」とは「単なる殺人とは異なり、社会に対して影響を与える目的で実行され、そのような重要人物を密かに、あるいは不意に襲って殺害することである」とある。
また、テロリズムとは「広く恐怖又は不安を抱かせることにより、その目的を達成することを意図して行われる政治上その他の主義主張に基づく暴力主義的破壊活動をいう」と警察庁組織令第三十九条にある。
このふたつの定義は多くの方には異論のない定義であると思えるが、安倍総理の殺害を「暗殺」「テロ」という表現で語るマスコミの報道を見たことがない。
こういった定義に照らせば、安倍元総理の事件は明らかに犯罪行為としてのテロであり、暗殺である。個人的な恨みで政治的な意図はないなんて、その結果を想像すればわかるだろうし、犯人にそういう判断能力がなくとも、客観的に見れば元総理の殺害は「暗殺」であり「テロ」であり、きちんとそう報道すべきである。
ひとこと付記しておくと、私自身は必ずしもすべてのテロに反対ではない。しかし、それはあくまで武力で抑圧された国家・民族の最終的な反抗手段としての一類型としてであり、法治国家における個人の恨みを晴らすための行為は、そういうテロとは一線を画す単なる犯罪として非難されるべきテロであると考えている。
法治国家である現在の日本では、テロが最終的な反抗手段になるような状況ではないことは明らかであり、たとえ主義主張がどうであっても、日本で起こるテロは悪質な犯罪であり、これを支援したり扇動したりすることは犯罪を助長することに他ならない。
私の意見はおいておいて、いま述べたようにマスコミが「暗殺」や「テロ」を「銃撃」と言い換えることで何が起こるか。
先ほどの二例のようなことが起きる。すなわち「(自分の考える)巨悪を退治するには暴力も悪くない」と考える人が出てくるのである。
実際に実行に移す人はまれかもしれないが、そういう考えが広まると中には実行する人がいるかもしれない。
「銃撃」では「殺人」のニュアンスは伝わらない。このため罪悪感は薄れるのだ。
「殺人」と言わないのは、つまり「(安倍という)悪い人には制裁をしてもいい」という思いをマスコミがにじませているからであろう。
マスコミは口では「何があっても人を殺すという行為は許されない」と言っているが、「暗殺」や「テロ」を「銃撃」と言い換え、これに加えて被害者を加害者に仕立て上げる報道の結果がこれである。
ようやく暗殺犯の裁判が始まりそうだが、情状酌量どころか無罪を求める人がどれだけ多いか想像に難くないだろう。
そういうマスコミが今回、「死んでしまえばいい」と言ったのである。
報道の自由と「扇動の責任」
マスコミは中国の紅衛兵ではないのだから、日本で起こるテロを「造反有理」と言ってはならない。
テロがあった時に、政府だけでなくメディアも、加害者の名前や動機、背景、生い立ちを一切報道しないという西側の国があったと聞く。
「理由はどうあれ」暗殺は許すべきではなく、報道で「理由によってはそういう行為が許容される」と誤解されることを防ぎ、「類似の事件を起こさない」ためである。
日本がここまでやった方がいいかどうかは検討の余地があるが、少なくとも安倍元総理への攻撃は「暗殺」という殺人罪であることをはっきりさせるべきだし、「死んでしまえばいい」というテロを認める報道は決してしてはならない。
いちおう、仮に百歩譲って、この言葉がついやってしまった失言だったとしても、少なくともこの司会者が、ことの本質は彼による高市総理個人への脅迫にとどまらないことを理解していれば、高市総理に謝罪するだけでなく、「殺してはいけません。私の言い方が間違っていました。私の言葉に扇動されないようにしてください」くらい言えたはずである。これがない時点でマスコミ人失格である。
ただ、これは個人の問題というより、録画でありカットできるにもかかわらず、あえて報道したマスコミの責任の方が大きい。今回はメディアがわざとテロを扇動していると見られてもおかしくないレベルの問題である(やわらかく言えば、「暗殺」を「銃撃」と言い換えたように、悪い奴には暴力を振るってもいいという主張をしている、という問題である)。
当該番組のみを打ち切りにして関係者を処分して済む話ではなく、こういった「造反有理」という報道の仕方を検証し、対策せずしてメディアの価値はない。
視聴率が取れるからとジャニーズを使い続けたマスコミと、検証も責任も取らず、しかもそういう人をそのまま活用しテロを認めるマスコミの、どっちがひどいのだろう。
■
田中 奏歌
某企業にて、数年間の海外駐在や医薬関係業界団体副事務局長としての出向を含め、経理・総務関係を中心に勤務。出身企業退職後は関係会社のガバナンスアドバイザーを経て、現在は隠居生活。