最近、非核三原則が現状、非核2.5原則ではないかとか、現政権が「持ち込ませず」の部分を削除することに前向きだと報じられています。この重いテーマ、少し皆さんと考えてみたいと思います。もちろん結論は出ません。ただし、私が思うのは「政権が好きに変えることができるのか」という疑問であります。
非核三原則、「持たず、作らず、持ち込ませず」は1967年、佐藤栄作首相(当時)が国会で表明し、以降の政権が堅持してきているわけですが、これは政権がそれを維持しているというより国是として国民に広く認識されていることでもあります。
その背景をもう少し探ってみると意外な盲点がそこにあることに気がつきます。佐藤氏はもともと核を日本に配備する必要があると考えていました。特に中国が1964年に核実験を成功させ、核配備を進めたのに対抗し、日本も持たざるを得ないという議論が生じました。では佐藤氏が考えを180度転換した理由は何か、といえばアメリカの核の傘に入ることをジョンソン大統領(当時)が認めたからであります。
つまり非核三原則はアメリカが守ってくれる、アメリカが日本の代わりに核を持ってくれるという大前提があるからこそ成立しているわけで日本が被爆国だから非核三原則があるという訳でもないのです。
佐藤氏の非核三原則の表明の前である1958年には中国による台湾への武力攻撃、「金門砲戦」が勃発しています。主たる砲撃は1か月半で終わりましたが、その後も散発的に21年間も砲撃をし続けたという歴史があります。この際に中国はソ連から技術を導入して核を持ちたいという意図があった為、日本も当時、それなら日本も必要最小限の核は持つべきではないかという議論が出たのです。よって当時は世論とは別に核の所有は真剣に取りざたされていた経緯があります。
その後、そのあたりの経緯はすっかり忘れ去られ、いわゆる非核三原則の標語の部分だけが独り歩きし、国民の多くは「日本は核はダメなんだよね」という理解になっています。もちろん、広島、長崎との結びつきもあります。ただ、ここは政治的背景とは齟齬が生じているように感じるのです。
では現状、非核三原則は守られているか、といえば最後の「持ち込ませず」が非常に怪しいとされます。つまりアメリカ軍が持ち込んでいるかもしれないし、そうではないかもしれない、だけど調べる手段がないという状況なのです。よってそんなあいまいなものならばいっそのこと、「持ち込ませず」は取ってしまってもよいのではないか、というのが現在の議論なのであります。
現政権の安全保障を担当する「官邸筋」がオフレコで記者団に「私は核を持つべきだと思っている」と述べたと報じられています。あくまでも個人の意見というレベルであり、当人は「国論を二分する課題」とも述べたとされます。私の解釈はこの発言は「持ち込ませず」に留まらず、日本が核を保有することを指しているのだと推測しています。この発言は瞬く間に火が付きました。ではなぜ、「官邸筋」がオフレコながら記者を集めてそんな話をしたのか、私は観測気球だと思っています。どうもその気球は撃ち落とされてしまった感が強いようですが。
高市首相 首相官邸HPより
ここまでお読みになればお気づきの通り、1958年に中台問題が発生して日本で核保有議論が起きたように、いま再び台湾をめぐる問題を契機に日本が核を保有すべきか、という議論を再度しようとしているようにも感じるのです。
お前はどう考えるのか、と言われるとそこに踏み込む覚悟が日本にあるのか、という疑問です。つまり政権なり国会で「はい、こう決まりました」という押し付け的な決定を世論が許すのか、という点です。多分、20年間、議論しても答えが出ないと思います。原子力発電所1つ稼働させるのにどれだけ議論をしたことでしょうか?ウラン濃縮度のレベルは核と原発とではレベルが全く違います。それこそ、「事故が起きるのでは」「どこに配備するの?」「誰がどういう権限でそれを管理するの」という点を含め、議論百出になるでしょう。
それ以上に外野がうるさくなります。日本は軍国主義に戻るのか、という声であります。もちろん、核保有=軍国主義というのは全く当てはまらず、見当違いも甚だしいのですが、プロパガンダ合戦を展開しそうな東アジア、更には東南アジア諸国も巻き込む作戦が展開するのは必至で、そこを乗り越える胆力と意志が政権、国会、国民世論の三拍子が揃って形成され、かつ、ちょくちょく変わる先々の首相がそれを堅持することができるか、であります。
つまり覚悟の問題です。
ところで国民投票制度は憲法と法律で決められているのですが、実は憲法改正に関与するものであり、非核三原則のような国是の議論を国民投票で決めるルールはなかったと理解しています。しかし、本件はそれこそ、法律を改定してでも国民投票による最終的な意思決定のプロセスが求められる事項だと思います。
一方、政権や国家安全保障の観点から「そんな悠長なことを言っていたら日本は無くなってしまうぞ」という意見が出るでしょう。では質問。専守防衛が一応原則の日本において核を自国で持った場合、どうやって使うのか、という根本的問題があるでしょう。それこそ憲法改正が必要であり、極めて大きなテーマになりうることはお分かりいただけると思います。
抑止力という点で核だけがその手段なのかを含め、相当の議論は必要でしょう。では「持ち込ませず」が形骸化していることについてはどうするのか、それこそ、曖昧を貫くというのも時としては方便になりえるのかもしれません。もしも政権が非核三原則にタッチするなら政権がぶっ飛ぶリスクは当然出てくるし、日本の外交は苦戦し、国内は二分化する可能性も出てくると思います。そういう点からしても軽々しく、この問題に触れるのは困難ではないか、という気がします。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2025年12月21日の記事より転載させていただきました。