2025年も終わりを迎えようとしている。読者諸賢は、どのような年末を過ごされているだろうか。
私自身は「先生は、文字通りの“師走”を過ごしてますね。」と、ある青山社中リーダー塾生に言われたが、確かにそうだな、と思う。今、このエッセイを今月5か所目の宿泊先である北海道で書いている。
11月29日-30日の沼田市(群馬)訪問から、宿泊を伴わないところも含めると、新横浜、鎌倉、草津、神戸、香取、静岡、現在いるむかわ町(北海道)と、あちこち渡り歩かせて頂き、それぞれの訪問先で感慨深い経験をさせて頂いたが、特に強烈な印象として残っているのが、福島県の沿岸部(浜通り)訪問である(ご存知の方も多いと思うが、福島は縦に3分して右から浜通り、中通り、会津と分けて表現する)。
主宰する青山社中リーダー塾11期生が5年目を迎えて卒塾を控える中、有志が「合宿」を企画して浜通りを訪問することになり、塾頭の私にも声かかかって一緒に現地入りすることになったわけだが、一言で言えば、そこに「新天地」が広がっているということがよく分かった。
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【承】
浜通りでは、特に、福島第一原発のサイトがあった双葉町、大熊町、それに隣接する浪江町を訪問した。現地の方の話では、登録上の住人ではなく実際に居住されている人(実際に帰還されたり、移住したりしている人)の数でいうと、双葉町は200人ほど、大熊町は1000人ほど、浪江町は2400人ほどではないか、という話であった。
数字だけで見ると、その3つの町で最も多い浪江町でもあっても人口は限られている。過疎の町と言って良い。ただ、その住人の「質」たるや凄いものがある。一人一票の民主主義にあって、人間の「質」の違いを論じることは適切ではないかもしれない。はっきり言ってタブーであろう。
しかし、2泊3日という短い滞在ではあったが、都合、20-30くらいのサイトを訪れ、各所で様々な方とお話させて頂くと、文字通り、すごい人たちが集結していることを実感せざるを得ず、人間の「質」の違いというものを、自らへの反省も込めて痛感せざるを得ない。
少し考えてみれば当たり前のことなのではあるが、行ってみないと気付けなかったことというものは往々にしてある。
東京での常識的生活から見ると、「被災地で、人も少ないところで、さぞかし大変だろうに」と、無意識に、つい上目線の憐みの目で見てしまう場所に、敢えて帰還したり移住したりして居を構え、頑張っている人の集まりというのは、人間としての質が高い人、すなわち、普通の人がやろうとしない困難を引き受けて、新たに道を切り拓こうとする人たちの集まりであるに決まっているわけだ。私の言葉で言えば、まさにリーダー(始動者)の集うところ、ということになる。
そして、更に大事なことは、本人たちの認識の問題だ。彼ら/彼女らは、外形的には、困難な状況を自らの意志と努力で切り拓くリーダーということになるが、本人たちの意識としては、実は始動者云々という能書きを超越している。
要は、彼ら/彼女らとしては、単に非常に居心地のいい場所・コミュニティに身を置いて、生活や人生を楽しんでいるに過ぎないという事実である。あたかも、趣味を同じくする大学のサークルの仲間や、同じ夢を目指して頑張る高校の部活の仲間と暮らしているかのように、気の合う仲間たちとだけ過ごせる心地よき新天地にいる、ということに過ぎない。自然である。
大熊でキウイ・フルーツ作りを始めている26歳の原口さんは、和歌山県出身(大学も和歌山)であったが、なぜこの地にて頑張っているのかを聞いた際に、「気候その他の条件もあるが、ここにはしがらみがないから」と即答していた。
和歌山で同じことをやろうとすると、やれ農協との付き合いが、とか、先輩農家たちへのご挨拶が、などの調整・しがらみが生じていたと思うが、ここには、事実上、そうしたものが無いに等しいので(上の邪魔する世代がいないので)、気持ちよく仕事が出来るとのことであった。3人の仲間で手分けして営業や営農に取り組んでいて、東京にもしょっちゅう来ているようで、見るからに活き活きしていた。
三重出身のシェフで、東京でビストロを経営して成功させていた無藤さんは、敢えて浪江に移住して絶品の店を開業しているが、この地での暮らしを楽しみつつ新たな料理の開発に余念がない。私が夕食を楽しませて頂いた日は、極東の地を選んできている天才エンジニアと文学者のインド人夫妻(当地で出会って結婚となった模様)や、夫妻をサポートしている地元の老人たちや、国家プロジェクトのために赴任している内閣府職員とその友人らが来ていて満席だったが、よそ者の私も一気に溶け込ませて頂いた。料理をサーブした会話に加わったりしている無藤さんご夫妻も楽しげだ。
そして、大熊では、約10年ぶりに東日本大震災後のボランティア仲間(私と同じく埼玉西部の中高の出身)の南郷さんとも再会した(文字通り抱き合って再会を祝した)。彼は、少し南の広野町で「ふたば未来学園(中学・高校)」という被災地でリーダーを作る学校の立ち上げ・運営を軌道に乗せたあと、より困難な大熊町で全国初の公立の一貫校(子ども園・小学校・中学校)を立ち上げ、校長として活躍していた。生を実感しているかのような語り口が印象的だった。
大熊町の上記の1000人のうち、200人はこの学校に子どもを入れたくて移住してきている親や生徒などの関係者ではないか、という話も現地で仄聞した。例えば都会で不登校だった子が見事に蘇っているとのことだった。噂を聞きつけて、年々志望者が増加しているという。そして、南郷さんと共に校内を案内してくれた若き教師は、聞けば、ふたば未来学園の卒業生であった。
我々のことを色々と案内してくれた高橋さんは、同郷(やはり埼玉西部)出身で、元々霞が関の仲間だが(外務省→マッキンゼー→東の食の会)、家族を東京に残して月に一度ほどは、東京に戻りつつ、普段は単身赴任という感じで浪江で過ごしている。その地に身をおいて、現地の復興に汗をかいている。
彼と一緒にいると町で会う人・会う人が仲間という感じで、ちょっと移動してもすれ違う人との挨拶で忙しいくらいで、古の日本の町にタイムスリップしたかのような感じがある。町中にアートを入れて雰囲気を一変させたりしているが、非常に楽し気だ。「皆さん、被災地といって憐れむが、実はここには希望しかない。こんなに居心地の良い所はない。」と彼は言う。
高橋さんが連れて行ってくれた、かつて栄光を誇った大堀相馬焼(陶磁器)の集落には、帰還者が一人しかいないが、その一人である近藤さんは、圧倒される作品群を現地で作っており、芸術の心が足りない私でも感じざるをえない表現を焼き物等にこめられている。新たな女性の弟子も二人移住してきていたが、リーダー(始動者)としか言いようがない活躍ぶりであった。
【転】
今回の合宿を中心的に企画してくれた青山社中リーダー塾11期生の河田さん(環境省)は、普段はいわき市の環境省の出先機関に駐在しているが、仕事の中心は、汚染土の中間貯蔵の管理や今後の政策策定である。現地の息吹に触れ、これは合宿にしてリーダー塾生にも味わってもらわねば、と考えてくれたようだ。
サイト内を詳細に案内してくれた彼女は、10年の歳月をかけて中間貯蔵地に運び入れた汚染土を、2045年までに福島県との約束に基づいて県外で処分せねばならないという悩ましい課題と向き合いつつ、日々忙しいようだが、どこか楽し気でもあった。
滞在中、嬉しいサプライズで、経産省時代に大変お世話になった先輩の新居さんが、宿泊先のホテルをふらっと訪問してくれた。新居さんは、経産省のエースとしてずっと日の当たるポストを歩み続け、当時としては異例の40歳そこそこで本省の課長職に就くという大抜擢もされた方だが、震災後は志願して福島対応に回り、今は、復興庁の統括官として活躍されている。現地現場主義がモットーで、その日も現地を駆けまわっておられた。
また、同地でたまたま開かれていた会議に、経産省後輩で福島復興の担当をしている内山君が出席していて、トイレで偶然出くわした。かれも土日返上で現地入りしていたが、業務でしかたなく、というよりは、始動者の集まりである現地に喜んで来ているという感じであった。浜通りの息吹は、ともすると守りの業務に終始しがちな公務員たちにも、着実に良い影響を与えている。
浪江の駅近くには、FREIという国家を挙げての研究施設が出来る予定であり、外国人の研修者など300人以上が集結すると言われている。駅周辺も工事がはじまっていたが、隈研吾さんのデザインで、一帯は様変わりするようだ。先述の無藤さんのビストロのところで触れたとおり、内閣府の職員などもその事業のために既に駐在している。
浪江には、巨大な水素の実証プラントなどもあり、万博の大屋根リングの一部を担った巨大な製材所もあり、日揮の陸上養殖のプラントまである。南相馬のロボットテストフィールドなども有名であるが、福島の被災地を置き去りにしない、とばかりに、国家主導、大企業主導で様々なプロジェクトが浜通りで動き始めている。このトップダウン型の未来も一つの大きな希望である。
同時に、上でごく一部だけ触れさせて頂いた各人のリーダーシップ、双葉の浅野撚糸さんのような各企業のリーダーシップ(岐阜の企業だが、義侠心からか、今治タオルの原材料などになる「ふわふわの糸・生地」を、敢えて被災地で生産すべく、素晴らしい工場・ショップを双葉に建設・運営)、地酒の日本酒の鈴木酒造さん・haccobaさん(クラフト・サケ)といった地場からのリーダーシップ、即ち、ボトムアップからの未来づくりが主役であることは忘れてはならない事実だ。
ボトムアップとトップダウンのうまい配合・連携こそが未来を切り拓く気がしてならない。
【結】
どなたの発言だったか忘れてしまったが、記憶に残る一言は、「我々は、今のアメリカの始祖とも言える“ピルグリム・ファーザーズ”みたいなものだと思います。」というものであった。
「歴史の授業では、宗教的迫害を逃れてきた人たちみたいな言われ方ですが、最近の研究では、実はその多くは、ピューリタンではなく、国教会徒だったとも言われています。つまり、必ずしも迫害を逃れるために来たわけではなく、希望に導かれてきたわけです。しがらみのない新天地に来ること、そして実は、新天地そのものより、その新天地に惹かれて来ると言う同族の仲間たちに囲まれて、楽しく頑張りたいと思います」という一言こそ、私の胸や脳裏に電流を走らせてくれたものであった。
まもなく2026年がやってくる。果たしてどんな年になるだろうか、いや、どんな年にするべきだろうか。
高市政権には頑張ってもらいたいし、実際、経産省政権とも言われる中、かつての仲間たちがトップダウンで日本の国益最大化のために様々に尽力をしている。
16日には、かつての上司で高市政権の参与をしている今井尚哉氏と、それこそ5時間近く痛飲させて頂いたが、外交や経済活性のための打ち手のお話も伺ったが、さすがのご慧眼で感服もした。トップダウンの動きは重要である。
ただ同時に、我々日本人一人一人が、各場所で始動し、リーダーシップを発揮しないと未来はやってこない。浜通りのピルグリム・ファーザーズたちに学びつつ、私も来年も各地を駆け抜け、人材を育成し、日本の未来に貢献したいと改めて感じた次第である。トップダウンとの融合も、私ならではの立場で意識しながら。
正月に飲む予定の福島の地酒がうまそうだ。
素敵な出会いに感謝しつつ、読者の皆様の明るい2026年を祈りたい。